羽生結弦がいま「能登に伝えたい」思い...被災地支援を続ける羽生が語った、3.11の記憶と震災を生きる意味
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9月15日のチャリティー演技会後、金沢市内で本誌の取材と撮影に応じた羽生結弦 TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
<東日本大震災を地元仙台で経験した羽生に聞く「能登への思い」「自分の責任」「幸せとは何か」――独占インタビュー(※取材は能登半島豪雨の前に実施)>
震災は人からあまりに多くのものを奪う。それが本質的に何であるかは、究極的には実際に経験した者にしか分からない。
同時に、もしも震災から得たものがあるとしたら──? それを伝えることができるのも、経験した者でしかないだろう。
2014年ソチ冬季五輪、18年平昌冬季五輪の連覇などを経て、22年7月にプロ転向を表明したフィギュアスケーターの羽生結弦。宮城県仙台市出身の彼は、初の金メダル獲得の約3年前の11年3月11日、地元で東日本大震災を経験した。
被災後の数日を家族と共に避難所で過ごし、本拠地のスケートリンクが閉鎖され満足に練習のできない時期も経験した羽生は、この13年間、被災者に寄り添い、日本各地の被災地に対して支援活動を行ってきた。
9月14日には、石川県金沢市内で、能登半島地震で被災した石川県、富山県、福井県の小学生を招いたスケート教室に参加。翌15日には「能登半島復興支援チャリティー演技会」と題したアイスショーに鈴木明子、宮原知子、無良崇人と共に出演した。
演技会は無観客だったが、被災地の珠洲市、輪島市、七尾市、志賀町でパブリックビューイングを実施するとともに、一般向けに有料配信を実施。その収益は石川県に寄付される(配信はLeminoで9月30日まで)。
羽生は演技終了後の囲み取材で、配信であるにもかかわらず石川県で滑った理由を聞かれ、「つらかった方々、いま現在つらいと思っている方々、いろんなことで悩んでいる方々の近くで滑りたいと思いました」と語った。
羽生が被災者に心を寄せ、震災の記憶を伝え続けるのはなぜなのか。彼がいま能登の人々に伝えたい思いがあるとしたら、それは何なのか。
本誌は9月15日、金沢市内で羽生に単独インタビューを行った。演技会終了から1時間半後、羽生はチャリティーTシャツ姿で取材場所に現れた。生地と染色、縫製まで全てが「メイド・イン・北陸」のそのTシャツの胸には、演技会のテーマとなった「CHALLENGE(挑戦)」の文字がある。
羽生に能登への思いを聞くと、そこで語られたのは彼自身が震災の記憶と共に挑戦を続けてきた、その道のりだった。(聞き手は本誌編集部・小暮聡子、大橋希)
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