羽生結弦がいま「能登に伝えたい」思い...被災地支援を続ける羽生が語った、3.11の記憶と震災を生きる意味
Lending a Helping Hand
──羽生さんは今年6月、日本テレビの報道番組『news every.』の取材で輪島市を訪れました。今回のチャリティー演技会は、どんな思いで滑ったのでしょうか。
ちょっとでも笑顔になってもらいたいという思いが一番強かったです。能登を訪問したときにみなさんが「昔はこうだったんだよ」「こんなことがあって楽しかったんだよ」と話しているときの笑顔がどうしても忘れられなくて。
現在の話や未来の話をされているときにはその笑顔が少なくなっていくのを実感したので、この「今」という時に笑顔になったり、優しい気持ちや温かい気持ちになったり、そんな輪が広がったらいいなという思いで滑りました。
──演技会では照明などに凝らず制作費を抑えて、収益をできるだけチャリティーに回すことを考えたと聞きます。羽生さん自身、これまでにアイスリンクや被災地に対して行った寄付は3億円以上になるそうですが。
練習拠点にしていたリンクが東日本大震災で使えなくなったとき、荒川静香さん(フィギュアスケート五輪金メダリスト)が宮城県や仙台市に働きかけてくださったおかげでリンクが復活しました。
そうしたいろいろな支援の輪、いろいろな方々の思いが僕のオリンピックの金メダルにつながったと常に思っていて。だからこそ、自分が本当にお世話になったリンク(への寄付)もそうですし、たくさん応援してくださった被災地の方々の力になりたいという気持ちでいます。
──仙台市内で被災したとき、羽生さんは16歳。その経験は、羽生さんのその後のスケート人生にも大きな影響を与えたと想像します。被災当時の記憶について話していただけますか。
あの直前、震度5を含む地震が何度もあったのですが、リンクが壊れるほどではなかった。だから3月11日の地震が起きたときも最初は大丈夫だろうと思っていて、一般のお客さんもいる時間だったので、僕は「みなさん、大丈夫ですよ」と落ち着かせる立場でした。
でもだんだん地震が長く、大きくなっていき最終的に電気が消えて、ガラス戸がぶつかる大きな音がして、建物も倒壊するのではないかというほどひび割れて......。そういう轟音の中で地震を体験しました。
あのときは相当しんどかったですが、とにかくスケート靴は肌身離さず持っていました。避難所では電気がつかなかったので、空を見ながら「星、きれいだな」と思ったり、灯油のストーブにあたったりしたのを覚えています。
ライフラインは簡単に戻らないし、スケートのことを考えている余裕は全くなかった。でも多くの方々がチャリティー演技会を企画してくれて、それがきっかけでスケートの練習をしなくちゃ、と考えるようになりました。
さまざまなアイスショーでも被災地を応援しようという空気がありましたし、(ショーの前に)リンクに早く行って練習をさせてもらうなどの支援を受けながら、スケートを続けることができました。