羽生結弦がいま「能登に伝えたい」思い...被災地支援を続ける羽生が語った、3.11の記憶と震災を生きる意味
Lending a Helping Hand
──実際に経験した当事者にしか語れないことがあると思います。今まで暮らしていた町が一瞬にして奪われる、というのはどういう気持ちなのでしょうか。
僕は何かを失ったわけでもなく、正直実感がないんです。親しんできたお店がリニューアルオープンするとか、移転するということってあるじゃないですか。それが一気に町全体で起きる感覚で、見たことのない世界が急に訪れる。「壊れちゃってる」とは思っても、それを悲しいと思う暇もありませんでした。
──被災から2週間後に仙台を離れて、神奈川県のリンクでスケート練習を再開されました。今も能登では、被災した故郷を離れる決断をせざるを得ない方たちがいます。地元を離れたときの羽生さんの思いは。
僕はやるべきことがあったので、そうした使命感から、とにかく地元を離れるしかないという気持ちでいました。家族を残すことにもなったし、自分だけ行っていいのかという葛藤もあった。「自分は被災地から逃げた」という思いはずっと持っていました。
(そんな思いを)持つ必要がないと今なら考えるかもしれないけれど、あの頃はそうした罪悪感にさいなまれながら、自分ができることを精いっぱいやるんだっていう使命感と共に(神奈川に)行きました。
──能登の被災地では、この夏までに希望者の多くが仮設住宅に入り、ようやく生活環境を取り戻しつつある段階です。復旧から復興に目を向けるのはなかなか難しい状況ですが、ご自身の体験として復興への道のりをどう記憶していますか。
僕は16歳だったので、復興に向けて何かしら運動をすることはできなかった。政府の方々や地元の方々が動いてくれるのを待つしかなかったんです。
そんななかで、自分としては被災地の方々のためにスケートを頑張るという、僕にしかできない役割を与えられたと思ってしまった。それは積極的にとか自主的にではなく、どちらかというと受動的な感覚でした。
どこに行っても、どんなスケートをしても、「被災地のスケーター」と言われてしまう。じゃあ被災地のスケーターとして滑ることの意義ってなんだろうと自分で考えるより先に、社会につくられてしまった感じでした。それに反発したわけではないけれど、いつの間にか自分の両肩にいろんなものが乗っかっていた感覚がありました。