独占インタビュー:師弟関係にあった佐渡裕が語る、「小澤先生が教えてくれたこと」
A Tribute to My Maestro
しかし小澤先生の指揮の姿は、その後大きく変化していきます。ウィーン国立歌劇場の音楽監督になられた頃から、指揮棒を持たなくなった。よくオーケストラの音を聴くようになった。あるいは、オーケストラをもっと自由に解放するようになられた。年齢と共に成熟していく過程を見てきた気がします。
最後は、オーケストラにやらせ、それを自分が聴くという境地に達したのではないか。そうなってくると、オーケストラのみんなが瞬時にしてテンポを感じて、ニュアンスを感じ、どういうリズムとスピードが適切かを判断するようになります。
先生には指揮の技術とは別に、音楽に対する強烈な情熱がありました。嫌なこともきっとあっただろうけど、どこに行っても人を楽しませて、おちゃめでいたずら好きで、いろんな文化や風習の違う国々を渡り歩いていくたくましさを持つ人でした。
最後まで挑戦を忘れなかった
かつてはN響と対立して楽団員にボイコットされるほどの衝突もありました。ぼろっと一回だけ「若い頃、自分はやっぱりつけ上がっていた。すごいショックだったけど、それは大きな勉強になった」というふうにおっしゃっていました。
小澤先生に1年間指導を受けた後、私はウィーンに留学し、89年にブザンソンの指揮者コンクールで優勝し、フランスを中心に仕事を始めていくことになります。その頃、小澤先生にこう言われました。「ヨーロッパで活動していくんだったら、ドイツのオーケストラを指揮しなさい」
どんなに小さくて未熟なオーケストラでもいいから、振りなさいとおっしゃるのです。ドイツ人のオーケストラ社会というのは、1日目の練習、2日目の練習で何をして、3日目の練習で何をつくってどう本番に持っていくか、そのプロセスが大事なんですね。楽団員が納得していなかったら、なかなか「ヤー(はい)」とは言わないんです。でもヤーって言ったら本当に、みんなで考えていたことを実行してくれる。
だからドイツのオーケストラは、ずっしりしているんだけれど、なにか跳ね上がっていて、輝いている。後にベルリン・フィルでも指揮することになりましたが、小澤先生が何を伝えたかったかが、今はよく分かります。
その後、留学を経て私が31歳で新日本フィルの指揮者グループの一人に選んでいただいたのも、「佐渡に指揮をやらせろ」という小澤先生の強い推薦があったからです。