「戦争に芸術をつぶさせるわけにはいかない」ウクライナ国立バレエを率いる日本人、寺田宜弘の「戦いの舞台」
Nobuhiro Terada
ウクライナ国立バレエ今年の新作『ファイブ・タンゴ』。劇場のダンサーたちと寺田(中央) COURTESY OF KORANSHA
<キーウの歌劇場を夢見た少年が、今、ウクライナ国立バレエの芸術監督として新しい風を吹き込む。本誌「世界が尊敬する日本人100」特集より>
ウクライナがまだソ連の構成国で、日本人の姿などどこにも見当たらなかった40年前。大きなシャンデリアの輝くキーウの歌劇場を見た7歳のバレエ少年は、絶対にこの舞台に立ちたいと夢を描いた。現在、芸術監督としてウクライナ国立バレエを率いる寺田宜弘の原点だ。
【動画】寺田宜弘が率いるウクライナ国立バレエのパフォーマンス
京都でバレエ教師の両親のもとに生まれた寺田は1987年、バレエ芸術の中心地キーウの国立バレエ学校に11歳で単身留学した。「8人部屋の寮生活で、水も食料も十分でないペレストロイカの時代。でも皆が大きな夢の下に助け合い、つらいと感じたことはなかった」と、寺田は言う。
19歳で国立バレエに入団し、ソリストとして活躍。国立バレエ学校の芸術監督に就任して指導者としての人生をスタートしたのは36歳の時だ。ウクライナでは異例の日本人監督の起用。「新しい時代をつくってほしい」と期待された。
寺田は青少年のための国際フェスティバルを開催するなど、ウクライナと世界のバレエ界をつなぐ活動にも尽力した。2021年には国立バレエの副芸術監督に任命された。
事態が暗転したのは昨年2月24日だ。日本大使館の勧告に従い前夜の最終便でポルトガルに移動した寺田は、ロシアが本当にウクライナを侵攻したと早朝の電話で知らされた。信じ難い思いだった。
劇場は閉鎖され、多くの団員が国外に逃れた。ドイツに渡った寺田は、国外避難したダンサーをサポートし、各国バレエ団での受け入れを求めて奔走した。さらには、散り散りになった団員を集め、昨夏の来日公演を予定どおり実現。寺田の調整力と各国バレエ界での人脈、それにウクライナの芸術を守り抜こうとの熱意が結実した成果だった。
そんな寺田が昨年12月、国立バレエのトップである芸術監督に就任したのは必然の流れだろう。ロスティスラフ・カランデーエフ文化副大臣は、「彼のウクライナでの年月はウクライナ文化への深い理解によって育まれた」と語る。「就任数カ月で既に、著しい成果が見えている。困難な状況下で彼はバレエ団を守り、数々の新たな舞台を生み出し、日本を含む多くの国外公演を率いてきた」