軽やかにジャンルを行き来し「音楽の未来」を体現した、坂本龍一の71年
COMPOSER FOR THE AGES
この頃から坂本の楽曲は空間を重んじ、時の流れに寄り添うようになった。あるインタビューでは、自分の昔の曲を以前よりゆっくりと弾く理由を、こう説明していた。
「音符を減らし、(次の音符までの)空間を増やしたい。空間は、無音ではない。空間には音が響いている。その響きを、私は楽しみたい」
貫き通した音へのこだわり
坂本は1952年1月17日に東京で生まれた。父・坂本一亀(かずき)は著名な文芸編集者で、母・敬子は婦人用帽子のデザイナーだった。
6歳でピアノを習い始め、作曲も始めた。初期にはバッハやドビュッシーに傾倒。10代後半でモダンジャズに出会い、学生反乱の時代を生きた(まだ高校生だったが、学校のバリケード封鎖に加わった)。
その後は現代音楽、とりわけジョン・ケージの前衛的な作品に引かれた。東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学ぶ一方、シンセサイザーを巧みに操って日本のポップスシーンで活躍し始めた。
78年には初のソロアルバム『千のナイフ』を発表。電子楽器ボコーダーを使った毛沢東の詩の朗読から始まり、レゲエのビートとハービー・ハンコック風の即興演奏が続く奇抜な作品だった。
同年、ベーシストの細野晴臣に誘われ、ドラマーの高橋幸宏と3人でYMOを結成した(高橋は今年1月に死去)。爆発的な人気を博したが83年に解散。ただし、その後も何度か再結成している。
坂本は80年にソロアルバム『B-2 ユニット』を発表。収録曲の「ライオット・イン・ラゴス」ではアフリカンなビートとハイテク感を融合させた。
ベルトルッチの東洋3部作を手がけた後、坂本の活躍の場は広がっていった。マドンナのミュージックビデオに出演し、Gapのモデルを務め、92年のバルセロナ五輪では開会式の音楽を担当した。87年のアルバム『ネオ・ジオ』と89年の『ビューティ』ではイギー・ポップやユッスー・ンドゥール、ブライアン・ウィルソンらと共演している。
だが90年代半ばには原点であるクラシック音楽に立ち戻り、初期の作品をピアノトリオ用にアレンジしてツアーに出る一方、悲しみと救いをテーマにした交響曲『ディスコード』や20世紀の歴史を振り返るオペラ『LIFE』などの壮大な作品を発表し続けた。