20万円で売られた14歳日本人少女のその後 ──「中世にはたくさんの奴隷がいた」
延応元年(1239)4月、鎌倉幕府は次のような法令を出している(現代語訳)。
一、寛喜(かんぎ)の大飢饉(ききん・1230~1231)のとき、餓死に瀕して売られた者については、彼らを買い取って養育した主人の所有を認可した。本来、人身売買はかたく禁じられていることであり、これは飢饉の年だけの特例措置である。しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫が良すぎる話である。ただし、売買した双方が納得ずくで現今の相場で買い戻すのなら問題はない。
寛喜の大飢饉とは、日本中世を襲った飢饉のなかでも最大級のもので、当時「全人口の3分の1が死に絶えた」(『立川寺年代記』)といわれたほどの大災害である。わが国では古代以来、原則的に人身売買は国禁とされていたが、このとき鎌倉幕府は時限的に超法規措置として、人身売買を認可したのである。その理由は、餓死に瀕した者を養育した主人の功績を評価して、とのことだった。
「価格は1万~5万円」わが子をやむを得ず手放す親も...
もちろん、それは表向きの理由で、実質はこの機会に貧乏人の足元を見て下人を買いあさり、経営を拡大しようとする富豪たちの利益を幕府が保護しようとした、と考えることもできる。
しかし、幕府法以外でも、飢饉における人身売買は特例である、という意識は思いのほか社会に浸透していたようだ。次に紹介するのは、この頃に父母がわが子を他人に売却したり、質入れした人身売買文書のなかの一節を現代語訳したものである。
*「去る寛喜の大飢饉のとき、父も息子二人も餓死寸前であった。このまま父子ともに餓死してしまっては意味がない」(13歳と8歳、代400文と110文、1236年、『嘉禄三年大饗次第紙背文書』)
*「この子は飢餓で死にそうです。身命を助けがたいので、右のとおり売却します。......こうして餓身を助けるためですから、この子も助かり、わが身もともに助けられ......」(8歳、代500文、1330年、『仁尾賀茂神社文書』)
いずれも飢饉でやむを得ずわが子を売却するのだ、という親の心情が切々と綴られている。このうち、まず注目してもらいたいのは、ここでの彼らの売却価格である。彼らは500文から110文と、相場の4分の1から20分の1の値段(ほぼ5万円から1万円!)で売却されてしまっている。
それだけ飢饉時には困窮者や破産者が続出して、人身売買相場も異常なデフレ現象をみせていたのだろう。ただでさえ人身売買は禁じられているのに、こんな破格の値段での人身売買は到底許されることではない。
人身売買は社会を維持するサブ・システムだった
それでも幕府は黙認せざるを得なかった。理由は、これらの文書に綴られているとおり、「餓身(がしん)を助からんがためにて候」、あるいは「父子ともに餓死の条(じょう)、はなはだ以てその詮なし」。すなわち、このままでは当人も親も餓死してしまう、それなら、一人が下人に身を落として、当人も親も助かるほうがマシである、というギリギリの選択だったのである。