死後世界も霊魂もないなら何をしてもいい──を実行した人がいた
場所と時代は変わって、一〇世紀後半のヨーロッパでも、似たことが起こりました。発端は、多くのキリスト教徒が、イエス・キリストが生まれて一〇〇〇年経つと、もしくはイエス・キリストが死んで一〇〇〇年経つと、この世は滅びてしまう、みんな死んじゃうんだと信じて疑わなかったことにありました。
そのため、この世の終わりが意識されはじめた九五〇年頃から、あとわずかしか残されていない時間をどう過ごすかをめぐって、極端な言動と行動が横行したのです。
一方には、ますます宗教に入れ込む人々があらわれました。ひたすら禁欲的な日々を送り、敬虔な祈りをささげ、すべてを捨ててエルサレムをはじめとする聖地への巡礼に旅立っていきました。
逆の一方には、何の役にも立たない宗教なんてクソ食らえという人々があらわれました。何もかもお終いなんだから、この際、したいほうだいしたほうが勝ちだとばかりに、飲めや歌えのらんちき騒ぎ、乱交パーティなどなど、ありとあらゆる欲望に身も心もゆだねっぱなしでした。
けっきょく、西暦一〇〇〇年が過ぎても、世界は滅びなかったので、両極端の行動もしだいにおさまっていきました。しかし、人間は絶望すると、何をしでかすかわからないという教訓は、人々の心に長く記憶されることになります。
それをふまえて、キリスト教では、神は人間の行動をどこまで許容するか、という課題がよく論じられてきました。キリスト教の場合、人間は唯一絶対の神によって創造されたことになっていますから、どの課題でも、つねに神と人間の関係が論議の鍵になります。
具体的な例をあげれば、ロシアの大作家、ドストエフスキーの大長編小説として知られる『カラマゾフの兄弟』に、一九世紀に勃発したロシアとトルコの戦争で、実際に起こったとされる事件を借りて、設問とそのこたえが書かれています。
まず、設問は、乳飲み子を母親の胸からもぎ取って、空中に投げ上げて銃剣で殺すという自由を、神は人間にあたえているか、あたえていないか、です。こたえは、神は人間にそういう自由をあたえている、です。ただし、真に神を愛する者は、そういうことはしないという付帯条件がついています。
どうも話が難しくなって、申し訳ないのですが、「いつか死ぬなら、何をしてもいいんじゃない?」という問いにちゃんとこたえるには、最低でも、これくらい知的な、あるいは宗教的な知見が欠かせない、とわたしは考えています。
※第3回:死んだ人の遺骨も、ブッダと同じ「仏」と呼ばれるのはなぜか
『しししのはなし
――宗教学者がこたえる 死にまつわる〈44+1〉の質問』
正木 晃・著
クリハラタカシ・絵
CCCメディアハウス
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