歴史の中の多様な「性」(1)
同性「夫婦」は存在した?
ここに一枚の錦絵新聞がある(『東京日々新聞』錦絵版、明治七年一〇月三日・八一三号)(図1)。錦絵新聞とは明治時代初期の数年間に発行された絵入り一枚刷りの新聞のことで、絵は江戸時代以来の木版多色刷りの浮世絵(錦絵)で、それに絵解き的な文章が添えられている。新聞といってはいるが、画像で読者を引き付けるという点で、メディアとしては、むしろ現代の写真週刊誌に近いかもしれない。さっそく見てみよう。
時は「ご維新」の政治的混乱もようやく一段落した一八七四年(明治七)、所は香川県三木郡保元(やすもと)村(現在地不詳、カモフラージュされているのかも)の塗師(ぬし)早蔵の家の居間。緋色の長襦袢を繕う妻のかたわらで、胡座(あぐら)をかいてあくびをする夫、白猫がのんびりと首をかき、一日の労働を終えた夕べ、夫婦のくつろいだ一時が感じられる。しかし、何かが違う。本来なら丸髷に結われているはずの妻の髪がばっさり切られてザンギリ頭になっている。いったい何が起こったのだろうか?
明治新政府は一八七一年(明治四)四月に戸籍法を発布し、翌年には全国一律の戸籍作成に着手する。いわゆる壬申戸籍である。三木郡役所でも早蔵を戸主として新たな戸籍を作成することになり、妻お乙(おと)の出生地である香川郡東上(ひがしかみ)村(現・香川県高松市)に問い合わせたところ、お乙が一八五〇年(嘉永三)に同村のある夫婦の間に生まれた乙吉という男性であることが露見してしまった。
男性を妻として戸籍を作るわけにはいかない。早蔵の家を管轄する戸長は「乙は元来男子なり。何ぞ人家の婦と成ることを得んや(乙はもともと男性である。どうして一家の主婦となることができようか)」と二人を説諭し、丸髷に結っていたお乙の長い髪を切ってザンギリの男頭にし、早蔵とお乙との結婚は無効にされてしまった。
男児に生まれながら女児として育てられ「娘」として成人したお乙は、早蔵から求婚されたとき、自分が女子ではないことをカミングアウトし、早蔵はお乙が男子であることを承知の上で婚礼をあげ、三年間、平穏に暮らしていた。だましたわけでも、だまされたわけでもなく、周囲の人も事実を知ってか知らずか、二人を夫婦として受け入れていたと思われる。
つまり、この錦絵新聞は、明治最初期に実質的な同性婚が日本に存在していたことを示している。同時に、男性と女装男子の平穏な夫婦生活、早蔵・お乙の小さな幸せを破壊したのが戸籍という近代的な制度だったこともわかる。