歴史の中の多様な「性」(1)
全国一律の戸籍制度は、国家が個別的な人身把握を徹底化し、それに基づいて婚姻・家制度を確立し、徴税・徴兵など近代国家システムを遂行する上で不可欠のものだった。厳格な近代戸籍制度の元では、男児として生まれながら女子として生きる女装男子や、男と女装男子の夫婦が存在できる余地はなくなってしまったのだ(三橋順子『女装と日本人』講談社現代新書、二〇〇八年)。
逆に言えば、江戸時代には、そうした余地があったということである。平安時代の前期(九世紀)に律令制に基づく戸籍制度が崩壊して以来、日本では国家が婚姻を厳格に把握するシステムは存在せず、慣習法に基づく事実婚に近い形が長らく行われてきた。
江戸時代の人身把握は、町・村ごとに町年寄・名主や庄屋が作成し管理する宗門人別改帳によって行われていた。ある男女が祝言(しゆうげん)をあげた場合、妻の名と年齢、そして檀徒として属する寺院名などが、宗門人別改帳の夫の脇に書き加えられる。しかし、実際にはかなりルーズで、名は記されず「女房」とだけ記される場合もあり、出生地の檀那寺への確認も必ずしもされなかった。そうした緩いシステムが、お乙のような「あいまいな性」の人の存在を許していた。
この錦絵が実際の姿を描いたものなら、お乙が男性であることが露見し、早蔵との夫婦関係が認められなくなった後も、二人はいっしょに住み続けたことになる。私としてはせめてそうであってほしいと思う。
近代戸籍制度が確立されたことで、法的には同性婚は不可能になった。ということは、同性パートナーの公認を否定する意見②の「日本社会の伝統」とは、近代以降のことを指すことになる。しかし、前近代(律令国家の成立から数えても)一二〇〇年余の形を否定して、近代一五〇年足らずの形を「日本社会の伝統」とする思考法は、歴史研究者である私には納得できない。
さて、法的には不可能になっても、近代以降も事実婚的な同性「夫婦」は存在していたようだ。
たとえば、私が子供の頃(一九六〇年代)、小学校の女性教員二人がいっしょに暮している家があった。一人の先生はいつもズボン姿の短髪で、かなりおじさんぽかった。もう一人は私の学校の先生で普通に女性の先生だったが、その先生と同僚だったことがある母の話では女子師範学校の先輩・後輩で、ずっといっしょに暮しているとのことだった。当時は、そんな言葉は知らなかったが、今にして思うと、女性同性愛(レズビアン)のカップルだったのではないかと思う。きっと、同じような事例は各地にあったのではないだろうか。