やわらかな日本のインターネット
あるいは、本書で「サイファーパンク」として紹介されている一連の人々。彼らはビットコインによる取引も含め、ありとあらゆる管理から逃れ、権威による支配を拒否する。序章に登場するサイファーパンク、ジム・ベルはその典型だ。「暗殺政治」に関する彼のアイデアは、完全に匿名化された懸賞首サイトが政治家の権威を無にするという未来を描き出すものだが、実はこの極端に思える発想は、既に別の形で実現している。
たとえばリサ・ガンスキーが「メッシュ」と呼ぶ、ソーシャルメディア時代の新しい評価経済のことを考えてみよう(『メッシュ│すべてのビジネスは〈シェア〉になる』徳間書店、2011年)。そこでは顧客が実際に購入して体験した話が、大企業の広告やPRよりもリアルなものとして消費者に受け止められる。「過激な透明性の時代」という言葉で表現されているこの仕組みと、ベルが主張する懸賞首への匿名の評価は、ポジティブなものかネガティブなものか、危害を加えると脅すのか否かという違いはあれ、原理は同じだ。ネットでオープンに評価することで、権威の力を抑制しようというわけだ。
ビットコインにせよサイファーパンクにせよ、なぜこうも彼らはインターネットに「反権威」であることを求める、あるいはそういう領域を確保しようとするのだろうか。その背景にあるのは、インターネットがまさにアメリカにおいて誕生し、アメリカ社会が理想とする自由な社会のあり方が体現されるような技術として進化してきたという歴史だ。アメリカ社会においては、その建国からして政府による課税に反対し、自分の力だけで土地を切り開き、守るべきものは自分の力で守るべきだという考え方が根付いている。こうした思想はアメリカでは「保守主義」と呼ばれるが、その中でも特に政府などの権威を否定するのが、本書でもしばしば名前のあがる「リバタリアン」という人々だ。
リバタリアンは税金も社会保障も警察もいらない、と主張する非常に極端な思想の持ち主だが、ではどうやって生きていくつもりなのだろうか。ここで注意しなければいけないのは、近年のネットでよく使われる「ソーシャル」という言葉だ。もともとソーシャルというと、アメリカ社会では「社会主義者」のことを指していた。だから「お前はソーシャルだ」というとき、そこには政府による管理や社会保障を肯定することへの批判や侮蔑の意味が込められていた。だが「ソーシャルメディア」などというときのソーシャルという言葉には、もはやそのような意味はない。そこにはせいぜい「人々が平等な立場で助け合う」といった牧歌的なイメージがあるくらいだ。