人のため働く仕事ほど低賃金な理由 医療従事者やソーシャルワーカーたちが経済的に報われないのはなぜ?
寿命が延びたのは医療の発達ではない?
しかし、少なくとも1900年以降の人間の寿命延伸の圧倒的部分が、医療の発達ではなく、実際には衛生学や栄養学、そして公衆衛生が改善されたことに起因しているということは、しばしば引き合いに出される事実だ。
このことから、病院では(きわめて給与の低い)看護師や清掃員こそが、(きわめて高額の給与を受け取っている)医者たちよりも、実際には健康状態の改善により大きな貢献をなしているといえるかもしれない。
別の例外もわずかばかり存在している。例えば、水道工事人〔配管工〕や電気技師の多くはその有用さにもかかわらず、多くの報酬を受け取っている。それと、かなり無意味であるような低報酬の仕事もある。しかし、おおよその場合規則は該当しているように思われる。
とはいえ、社会的便益(ソーシャル・ベネフィット)とそれへの報酬とが反比例している理由は、まったく別次元の問題である。わかりやすい理屈づけもあるが、どれも的外れであるように見える。
例えば、教育水準である。教育水準が給与水準を左右するものであるとして、もしこれが単に訓練と教育の問題であるならば、アメリカの高等教育システムにおいて、優秀なポスドク(博士号を取得後に任期制の職についている研究者)の多数が、貧困ラインを優に切った状態のまま非常勤講師をして――食料配給券にさえ頼りながら――食いつないでいるという状況は到底ありえないだろう。
一方、需要と供給だけでみるならば、現在アメリカでは、訓練を受けた看護師の不足が深刻なのに対し、ロースクール卒業者は供給過剰の状態にある。にもかかわらず、なぜアメリカの看護師が企業の顧問弁護士よりはるかに少ない給与しか受け取っていないのか、理解できないだろう。
理由はともあれ――わたし自身はといえば、それには階級権力と階級的忠誠が大いに関係していると考えている――、おそらくこの状況に関して最も悩ましいのは、きわめて多数の人びとが、この反比例した関係を認識しているばかりか、それが正しいと感じているように見える事実である。
古代のストア派がよくいったように、徳はそれ自らが報いである、というわけだ(いいことをしたらそれ自体が報酬であり、それ以上の対価は不要である)。
教師が多くの報酬を得てはいけない?
このような主張は、長らく教師に対してなされてきた。
小学校や中学校の教師の実入りがよかったりしてはならない、法律家や会社の重役と肩を並べるようなことがあってはならない。こうしたことは頻繁にいわれている。もっぱらカネ目当ての人間に子どもを教えてもらいたい者がどこにいるだろうかというわけだ。
もしそのような理屈に一貫性があるならば、ある程度、理解できないわけではない。だが、一貫性は存在しない(例えば、同じ主張が医者にむけられるのを聞いたことがない)。
社会に便益(ベネフィット)をもたらす人間は多くの報酬を受けてはならぬ、という考えは、倒錯した平等主義とすらいえるかもしれない。