最新記事

痛めつけられる至高の聖地

巨象インドの素顔

世界最大の民主主義国家
インドが抱える10億人の真実

2009.06.19

ニューストピックス

痛めつけられる至高の聖地

ブッダゆかりの巡礼地が犯罪の温床に

2009年6月19日(金)16時02分
痛めつけられる至高の聖地

始まりの地 菩提樹の下には今日も世界から信者が集まる Desmond Boylan-Reuters

 数千年の長きにわたって、インド北東部の静かな村にある1本の菩提樹は世界中の仏教徒を引きつけてきた。約2500年前、旅の修行者ゴータマ・シッダールタはこの大木の木陰で瞑想して悟りを開き、ブッダとなったのだ。

 その後、菩提樹は隣接する寺院とともに「最高の聖地」とされてきた。信者なら一生に一度は訪れたいと願う場所だ。しかし、この大菩提寺があるビハール州ブッダガヤ地区はおよそ巡礼には似つかわしくない。犯罪と腐敗が横行し、遺跡は荒らされ、寺院の周囲にはゴミが山積。物ごいが信者を襲い、僧侶をかたる詐欺師が聖なる木の落ち葉を売りさばいている。

 大菩提寺はなぜここまで仏教の精神とかけ離れた場所になってしまったのか。多くの非難は政府に向けられている。法律によって、ヒンドゥー教徒が過半数を占める委員会にこの寺院の管理と保護が任されたのは60年近く前のこと。調査関係者によれば、委員会の下で長年の間に巨額の寄付金が使途不明となっている。

 さらに、寺院から消えた仏像が突如として欧米の美術館や個人宅に現れるケースも数百を数えるという。昨年には、タイの裕福な仏教徒が施設管理のために高級SUV(スポーツユーティリティー車)を寄贈。その車は今、管理・運営委員会を率いるジテンドラ・スリバスタバが所有するガレージに止まっている(寺院の仕事に使っていると、スリバスタバは主張)。

 だが、ここにきて信者が立ち上がり、抗議運動を展開。大菩提寺の運営をダライ・ラマ14世をはじめとする仏教界の賢人グループにゆだねるよう当局に圧力をかけている。「ヒンドゥー教寺院やキリスト教の教会、イスラム教のモスクがよその宗教に支配されていないなら、大菩提寺も同じ扱いを受けてしかるべきだ」と、ブッダガヤ大菩提寺全国行動委員会のバダント・アナンド委員長は言う。

聖なる木を切って売却

 3億8000万人にのぼる世界の仏教徒にも支援を呼びかけ、成果の兆しも見えてきた。昨年の抗議デモをきっかけに、警察は管理・運営委員会のメンバー3人を捜査。その1人である仏僧ビック・ボディパラには売却目的で聖なる菩提樹の枝を切り落とした疑いがある。

 捜査当局はボディパラに要請されて枝を切ったとする庭師の証言を重視している。「逆らうことはできなかった」と語る庭師とその家族は、証言を変えるよう圧力を受けているという。「だが、嘘をつくことは罪にあたる」

 一方、ボディパラは不正行為を否定。菩提樹の剪定は自分が寺院運営にかかわる前の1977年に行われたと主張する。だが、スリバスタバ委員長によれば、問題の枝が切られたのは2006年だ。管理のずさんさも明るみに出てきた。菩提樹の根元には有害な塗料が塗られ、一部の枝が枯れる原因に。近くでともされるロウソクのせいで、樹皮も焦げついている。

 寺院の柱には、欧米の訪問者に「場所取り」をもちかけるチラシまで張られている。こうした行為は仏教の平等の教えに反するもので、欧米の巡礼者がカモにされているしるしでもある。「今の状況には胸が痛む」と、10年以上前から大菩提寺を訪れているアメリカ人の仏教徒リンダ・ノーブルは言う。「罪のない訪問者がだまされ、女性は暗くなると身の危険を感じる。あえて抗議の声を上げる人には暴力と恐怖がつきまとう」

 問題を一掃するには時間がかかるだろう。ビハール州当局は監視委員会を発足させたが、きわめて消極的な姿勢で、どの課題にも直接取り組もうとしていないと仏教徒側はみている。たとえば、州当局は当初、菩提樹の枝が切られたことを否定。メディアと抗議団体に迫られる形でようやく認めた。

世界遺産の名が廃る

 州監視委員会の任期は昨年10月に終了した。だが、州政府は信頼できる新しいメンバーを選任する代わりに、なぜか運営能力を疑問視されているスリバスタバに寺院に関する全権をゆだねてしまった。当局は安全面の問題は見て見ぬふりをして、この地区の豊かな仏教遺跡をエサに外国人観光客を集めることばかり考えていると、寺院を訪れる人々は口をそろえる。

 「管理が行き届いていない証拠を当局に渡したが、責められるべき連中がいまだに寺院を支配している」と、ヒンドゥー教の僧侶アラップ・ブラマチャリは言う。

 大菩提寺に集まってくる仏教徒たちは(寺によれば、昨年の訪問者数は350万人)、現状に戸惑いと憤りを覚えている。仏教徒がこの寺にいだく誇りはイスラム教徒がメッカに、ユダヤ教徒が嘆きの壁にいだく誇りにも似ている。伝承では、インドの偉大な王アショーカが仏教に帰依して紀元前250年前後に大菩提寺を建立。ブッダが瞑想したという正確な地点に宝座を置いた。

 だが、12世紀にイスラムの侵略者が寺院を略奪。その後の為政者には顧みられることなく時は過ぎたが、1880年代にイギリスが寺院を修復。瓦礫に埋もれていた貴重な仏像を発見した。さまざまな問題をかかえながら、今ではユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されている。

 かつてブッダに木陰をもたらした菩提樹はこうした激動の歴史をくぐり抜けてきたと、仏教の世界では信じられている。

 だが今のままでは、ブッダでもこの地で安らぎを見いだすのはむずかしいだろう。

[2008年3月19日号掲載]

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 8
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 9
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必…
  • 10
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 9
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 10
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中