コラム

アラブ世界とBLM運動:内なる差別を反差別の連帯に変えられるか

2020年06月24日(水)16時20分

アメリカ発のBLMに呼応してパレスチナ人差別への抗議デモを行う人たち(パレスチナ・ガザ) Mohammed Salem-REUTERS

<アメリカ発のBLM運動は、中東諸国でも「反差別運動」としての連帯が謳われているが、中東でも近年、アフリカ系への差別への異議申し立てが顕在化している>

5月末、米ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが警察の暴力的拘束によって殺害された事件をきっかけに、Black Lives Matter (BLM、「黒人の命も重要だ」)と訴える運動が世界中に広がった。それは単なる「黒人」に対する差別だけでなく、あらゆる人種差別に反対する運動につながり、中東でも大きな反響を呼んでいる。

何よりも敏感に呼応したのが、イスラエルのパレスチナ人だ。5月30日、フロイドの事件の5日後に、イスラエル併合下の東エルサレムで、パレスチナ人の若者イヤード・ハッラークがイスラエル警察によって撃たれて亡くなった。イスラエルの警官が、自閉症を患っていたハッラークが銃を所持していると思い込んだために発砲したからだが、そのような事実はなかった。

そもそもイスラエルによるパレスチナ人に対する差別的な待遇は、イスラエル建国以来、あるいは占領以来半世紀以上続く慢性的な問題である。ある調査によると、イスラエルで2000年から2019年までの間に57人のアラブ人(パレスチナ人)がイスラエル警察に殺害されたが、そのうち警察側が罪に問われたケースは皆無だ。バスに乗ったとき、道を歩いているときに、顔つきだけで疑惑の目を投げかけられ頻繁に職務質問されるパレスチナ人の現状は、在米パレスチナ人女性監督がパレスチナ人ラッパーたちをテーマに製作した映画、『自由と壁とヒップホップ』のなかで、赤裸々に描かれている。

ハッラークの殺害だけではない。イスラエルは、現在西岸地域を併合する政策を着々と進めている。今年一月、トランプ米大統領が、「ユダヤ人入植地の存在を認め、パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地域の多くをイスラエルに編入」する「世紀の取引」を提案したことは、以前の本コラムで紹介した通りだが、7月に予定されている「併合計画」は、それに沿ったものである。

そんな圧倒的に追い詰められた状況にあるパレスチナ社会にとっては、イスラエルとアメリカによる暴力が重なって見え、パレスチナ社会の閉塞感、被差別感に対する反発がBLM運動の世界的な流れのなかにすっぽりはまったとしても、不思議ではない。イスラエル警察を糾弾するパレスチナ人のデモには「イヤード(・ハッラーク)の命も重要だ」「イヤードに正義を、ジョージ(フロイド)に正義を」といったスローガンが掲げられた。

BLMは「世界的なインティファーダ」?

BLMと自分たちの被差別感を結びつけて考えるのは、パレスチナ社会だけではない。汎アラブ衛星放送局であるアルジャジーラのコラムニストは、BLMが人種差別に対する「世界的なインティファーダ」の契機だ、といった論調を展開しているし、レバノンなど反政府デモが続いている国では、自国警察の横暴を批判して「ミネアポリスとの連帯」が謳われている。政府側の鎮圧行動に晒されているシリアの反政府勢力の間では、「息ができない」というフロイドのセリフが瓦礫の落書きに登場し、トルコでクルド人が弾圧され殺害されたときにも、「フロイド」が引き合いに出される。中東のさまざまな地域のそれぞれの文脈で、BLMは反差別を象徴する運動として多種多様な形で咀嚼され、独自に解釈されているのだ。

だが、こうした「共振」は、中東でアフリカ系の人々が常にアラブ人に連帯の対象とみなされてきたことを意味するわけではない。イスラーム世界で長く「奴隷制」が維持されてきたことや、クルアーンに「白いこと」の優位性を記した記述があることなどをとらえて、イスラーム世界における歴史的な黒人差別を指摘する議論は、少なくない。同時に、そこでいう「奴隷制」が欧米の「奴隷制」とは根本的に大きく違っていることや、「奴隷」出身でありながらその後強大な権力を握った例が多々あること、イスラーム世界に「奴隷制廃止」を強要することが実際のところイギリスの中東支配の一環だったことなど、反論もまた数限りなくある。ここでは、そうした本質を巡る議論に踏み込むつもりはないが、現代のアラブ世界において黒人差別が現実に存在することは、否定できるものではない。今から半世紀以上も前、エジプトのナセル大統領は、アラブ・ナショナリズムを掲げつつアフリカの諸民族運動との連帯を謳ったが、残念ながらその理想はどこへやら、である。

まず目につくのが、アフリカからの移民労働者を巡る問題だ。家事労働者への暴行、暴力事件や建設労働者の劣悪な労働条件など、湾岸諸国で働くアジア、アフリカからの移民労働者の人権が軽視されていることは、しばしば指摘される。非産油国でも移民労働者の雇用は少なくなく、レバノンでは、登録された者だけでも25万人の外国人労働者が家事労働に従事している(当然未登録者も多い)。うち15万人が、エチオピアからの移民である。

<参考記事:紛争と感染症の切っても切れない関係──古くて新しい中東の疫病問題

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

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