コラム

ノーベル文学賞のカズオ・イシグロという選択

2017年10月11日(水)11時40分

日系イギリス人作家イシグロの受賞には日本の文学ファンも歓喜 Kim Kyung Hoon-REUTERS 

<ブランドとしてはノーベル賞よりむしろ「格上」のイシグロを選んだのは、ポピュリズムが跋扈する世相に一石を投じ、なおかつ露骨な政治性を感じさせない絶妙なチョイス>

ノーベル賞というのは審査委員の主観の総計で決まるので、その時代の政治性と無縁ではありません。平和賞は特にその傾向が強いですが、文学賞にも似たような事情があります。その意味で、今回2017年のノーベル文学賞に関しても、同時代の政治的な環境を前提に、誰が受賞するかということがどんなメッセージになるか、つまり賞がもたらすメッセージ性を予想することを通じて誰が受賞するか、という下馬評が飛び交っていました。

今年の場合は、何よりもブレグジットやトランプ現象といったアンチ・グローバリズムや排外主義など、偏狭な感情論に支配された世相を前提に、「文学とはこれらに対抗するもの」というメッセージ性が期待されていたと言えます。事前の予想1位は、ケニアの抵抗文学者でアフリカ人の言語と文化のアイデンティティー擁護を訴えたグギ・ワ・ジオンゴ氏だったのは、ある意味で当然でした。

グギ・ワ・ジオンゴ氏が受賞すれば、1993年のトニ・モリソン氏(アメリカ)以来のアフリカ系作家、そしてアフリカのアフリカ系作家の受賞としては1986年のウォーレ・ショインカ氏以来となるはずだったからです。

そして、村上春樹氏も事前には「予想2位」につけていました。ですから、もしも村上氏が受賞していたら、恐らくは「壁」という問題にからめた解説なり評価がされた可能性が濃厚です。というのは2009年にイスラエルで行われたエルサレム賞の受賞式で、村上春樹氏は「卵と壁」というスピーチを行っているからです。この「卵と壁」のスピーチはイスラエルとパレスチナの和解を呼びかけたものですが、仮に受賞していたら「トランプの壁」との関連性で論じられることになっていたでしょう。

村上氏の文学ということでは、日本では自身が学生運動に距離を置いていたことなどから、非政治的文学という読まれ方をすることが多いのですが、欧米では、特に近作の『1Q84』がジョージ・オーウェルの『1984』への、かなりストレートなオマージュとして受け止められ、管理社会への告発といった政治的な観点から関心を持たれていることもあります。ということで「壁」に加えて「管理社会」の問題など、村上文学を政治に引き寄せた形での評価になっていた可能性が大きいわけです。

ですが、審査員たちの選択は全く別でした。感情的なポピュリズムの嵐が吹き荒れる世相に対して、文学が立ち向かうには「ポピュリズムとは正反対の深く沈潜する純粋な美学と、知的な言葉」だという、まさに文学の本質に戻ろうとした――今回のカズオ・イシグロ氏の受賞はそのような受け止め方が可能です。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏とゼレンスキー氏が「非常に生産的な」協議

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story