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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
追悼、寺田博氏を送る
寺田博氏の訃に接し、涙が止まりませんでした。
純文学の時代が終わったといった種類の感慨ではありません。80年代に福武書店(現ベネッセ)でご一緒していた時代に、時には営業部門で寺田氏の作られた本を売る立場にあり、時には経営の側から出版という特殊な人材の求められる分野でどう人を育てるか、ある意味お手伝いをしていたこともありました。その際に十分なお役に立てなかった悔いのようなもの、それは少しはあるかもしれません。
ですが、そんなことはどうでも良いのです。寺田氏は、やはり素晴らしい仕事を残された、その巨大さへの思い、それが訃報に接してこみ上げてきた、そういうことだと思います。アメリカにおりますと、寺田氏の手がけてきた作家たち、中上健次やよしもとばななといった作家の存在感は、今でも大変なものがあります。そのことを思うとき、決して表舞台には出ない存在でありながら、編集者として作家達と格闘してきた寺田氏の姿が、改めて忍ばれるのです。
私は編集部に在籍したことはないのですが、何度かそうした作家の方々と寺田氏の対話に同席させてもらったことがあります。それは、「作家と編集者といったスノッブな知識階級が、酒場でサロンのようにぬくぬくと交友を続けている」といったイメージとは対極にあるものでした。寺田氏は、本当に作家達に全人格を、全思想を吐き出させ、それを受け止め、時にはそれと格闘していたのです。
その最たる例は、中上健次氏でしょう。氏の作品の持つ粗暴さや繊細さ、今でも多くの人の心をつかんで引きずり回すような説得力は、寺田氏の存在なくしては書かれることはなかったように思います。編集者とは、まずもって作家の最初の読者であり、また一字一句にまで仕上げる際の創作のパートナーであり、また作品のメッセージを本という形で世に送るメッセンジャーでもある、寺田氏の仕事には、その全てを一貫させる迫力がありました。
その意味で、文字表現の媒体が印刷された活字から、インターネットに移行し、しかも初稿から最終読者に届くまでのプロセスが信じられないように簡略化した現代では、中上=寺田コンビが送り出したような言語のパワーが見られないのはある種当然のことなのかもしれません。ですが、そうであっても、仮にネット上の言葉であっても、起稿から数時間で読まれるようなスピーディーな時代であっても、表現者と読者の間には妥協のない思想上の葛藤や、全人格、全存在を賭けた対決があっても良いのだと思います。
いわゆる炎上とか、ネット上の罵倒というと、ネガティブな現象に捉えられがちですが、どちらも表現者に対して読者が対決してきているというのは間違いないわけで、表現の側はそこからは逃れられないのだと思います。その意味で、今よりももっと深い危機感や思想対立のあった時代に、寺田氏は読者を代表して作家と真剣勝負を繰り広げていたのだと思うと、改めて頭の下がる思いがします。
享年76歳。早すぎる死、永遠の不在という淋しさに加えて、その訃報にはある種の完結感がありました。それもまた悲しいものに違いありません。心よりご冥福をお祈りいたします。
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