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プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
2人の指揮者、不思議な週末
クラシック音楽というと、政治やイデオロギーとは無縁のように思われていますが、必ずしもそうとは言えません。ベートーベンの思想や、シューマンの思想は当時のオーストリアやドイツの中ではかなり先進的なものでしたし、19世紀末から20世紀の多くの作曲家は迫害の経験なども含めて政治的文脈が色濃く反映した作品を残しています。
その最たるものは、旧ソ連の「お抱え作曲家」として振る舞いながら、心中に秘めた信念は永遠の謎としたまま他界したショスタコービッチでしょう。中でも1957年に作曲された交響曲第11番「1905年」は、様々な解釈の可能な作品です。タイトルにもあるように表面的には、「血の日曜日事件」の描写と、ロシア革命の栄光をテーマにしており、結果的に当時の共産党政権から「レーニン勲章」を受賞しています。
ですが、昨年他界したショスタコービッチの盟友とも言えるチェリスト兼指揮者の、ムルティラフ・ロストロポービッチ氏などによれば、作曲された年の前年に起きた「ハンガリー動乱」における、ソ連軍の民主化運動弾圧への抗議の思いが作曲の動機だというのです。それが本当なら、ショスタコービッチは、革命の正当性を高らかに謳うように見せかけて、その裏に反権力の思いを織り込んだということになります。
この「問題作」が先週末の2月27日、ペンシルベニア州のフィラデルフィア交響楽団の定期公演で取り上げられていました。棒は主席指揮者のシャルル・デュトワ氏だったのですが、このデュトワという人は、長年モントリオール交響楽団とともに、フランス物を中心に録音を続けてきたこともあり、音楽を綺麗に仕上げるのが上手、そんなイメージがあります。また、日本通でも知られ、NHK交響楽団の常任指揮者として多くの演奏を行う一方で、大河ドラマのテーマを振ったりもしているようです。
そのデュトワ氏は、昨年からフィラデルフィア交響楽団の「首席指揮者」に就任しています。前任の音楽監督クリストフ・エッシャンバッハが、唐突に音楽のテンポを変えるスタイルや、練習時間の長さを嫌われて楽団と不和になった(らしい)と報道されたことに怒って5年で辞任した後任が見つからない中、デュトワ氏が「営業活動の伴なう音楽監督ではなく、首席指揮者なら」と、しかも任期4年という変則で就任しているのですが、そんな経緯などどこ吹く風で、楽団との相性は素晴らしいのです。
そんなデュトワ氏と「ショスタコ」の「11番」というのは珍しい組み合わせに違いありません。もしかしたら、いつもの流麗なスタイルで、この「11番」を前世紀の文化遺産、つまり現在形の問題作ではなく、「クラシック」な壮麗な音の塊に磨き上げ、政治や悲劇の記憶から解放してくれるのでは? そんな期待があったのです。実際に、「11番」の前には、オランダの若手バイオリニスト、ジャニーヌ・ヤンセンがフレージングの細部にこだわりつつ、高速なパッセージとの一体感を損なわない見事な「ブラームスのコンチェルト」を聴かせてくれ、それにニコニコしながら伴奏をつけていたのですから、余計そんな思いがしていました。
ですが、私の想像は見事に打ち砕かれました。デュトワ氏は60分の大曲を一気呵成に早めのテンポで押し通し、一切の甘さを拒否した恐ろしい演奏を突きつけてきました。1楽章の「王宮前広場」はひたすら不気味で冷涼、「1月9日」と題された2楽章の虐殺シーンはあくまで冷酷、そこまでは劇性を高めた演出といえば言えなくもない解釈でした。ですが、犠牲者へのレクイエムというべき第3楽章では、有名な労働歌「同志は斃れぬ」をセンチメンタルな「歌」を一切抜いて無表情に鳴らしたのです。クライマックスというべき4楽章でも、「ワルシャワ労働歌」には英雄的なニュアンスは与えられませんでした。そして、全曲の締めくくりには全てを打ち砕くような鐘が打ち下ろされたのです。拍手に応えて、4回も呼び出されたデュトワ氏でしたが、ブラームスの時とは違って、鬼のような表情を全く変えていませんでした。
労働歌をセンチメンタルに歌って、虐殺シーンは大音響で正確に再現する、そんな「正統的」解釈とは一線を画したデュトワ氏の解釈ですが、印象論になるとはいえ、それは「壮麗な音響の塊」とはとても言えません。全曲が憤怒で貫かれ、最後の一撃は、まるで戦争と革命と革命の失敗に揺さぶられた20世紀への弔鐘のように思われたのです。ロシア革命の犠牲者にも、ハンガリー動乱の犠牲者にも、センチメンタルな追悼は行わない、そうではなくてもっと幅広い何か、支配や暴力一般への怒りとでも言いましょうか。ちなみに、今でも日本との関係を維持しているデュトワ氏は、直前の2月上旬にNHK交響楽団と同じ「11番」を演奏したそうです。N響での解釈も同じようなものだったのか、大変に興味のあるところです。
その翌日、28日の日曜日にはデュトワ氏の故郷カナダでは、バンクーバー五輪の閉会式が行われました。式の後半には、次回2014年のソチ五輪へ向けてロシア文化を紹介するパフォーマンスがありました。恐らくは事前に録音されていた音楽に合わせて「指揮」をしていたのは、北オセシア出身の指揮者ヴァレリー・ゲルギエフ氏で、流れていた音楽はチャイコフスキーの6番のシンフォニーの3楽章でした。ただ、本来のこの人のスタイルである「超高速インテンポ」ではなく、弛緩した田舎くさい演奏にニコニコ合わせて棒を降っているゲルギエフ氏を見ていると、これもまたある種の「お抱え音楽家」の姿とも言えるようで複雑な気分でした。(ただし、ゲルギエフ氏は一連のコーカサス地方の騒乱に関しては、反チェチェン、反グルジアで一貫しているので、ソチ五輪支持の行動というのは、彼なりに一貫性はあるのも事実です。)
そうは言っても、本来ですと、憤怒の様相ともいえる音楽を作るゲルギエフ氏が、オリンピックの閉会式で国家のためにニコニコしている一方で、流麗なスタイルを身上とするデュトワ氏が燃えるような怒りの音楽をやっていたわけで、何とも不思議な週末でした。
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