コラム

松井秀喜選手、頂点からその先へ

2009年11月06日(金)12時04分

 ワールドシリーズが終わりました。それにしても、最終戦の松井秀喜選手のプレーには鬼神が乗り移っていたようでした。憤怒というのではないのですが、激しい執念と言いますか、一打席一打席に知力と体力の限界の勝負を繰り広げていたと思います。ペドロをはじめとする相手投手は完全に呑まれていました。MVPという栄誉はその結果に過ぎません。ですが、現時点では松井選手のヤンキース残留は白紙です。思えば、丁度4カ月前の7月3日のエントリで、私はこの欄でこう述べています。

「私は長年のヤンキースファンであり、松井秀喜選手が加入して以来もずっと応援してきていますが、現状は大変に厳しいと言わねばなりません。4年契約の切れた後、来季以降ヤンキースに残れる可能性はジリジリと減ってきています。例えば、7月と8月でホームランを20本打つとか、プレーオフやワールドシリーズでMVP級の活躍をするということなら可能性が出てきますが、仮にそうであっても五分五分だと思います。(中略)私は今年、どうしても契約延長が不可能な場合は、松井秀喜選手がメジャーの中で移籍するということになっても仕方がないと思います。仮にそうなったとしても、ニューヨークのファンは、ヒデキ・マツイの「55番」は決して忘れないでしょう。」

 そのMVP級どころか、MVPが現実のものになりました。ですが、契約の延長は保証されてはいません。それどころか、MLBのホームページでは、アンソニー・ディコモという記者の署名記事として「今、仮にマツイが引退したとすると、今回の活躍は最高の『白鳥の歌』になる。最高に詩的であって、同時に爆発的な印象を残して・・・」という意味深長な記事が出る始末です。ネックは高額の年俸と守備への不安であり、優勝とMVPが決定した直後のヤンキース公式ページのファン掲示板でも「これでお別れになっても一生ゴジラのことは忘れない」という種類の「別離を前提とした賛辞」の書き込みがあふれています。

 本稿の時点では、全ては白紙です。例えば、秋口以来「レッドソックス移籍説」なども流れていますが、こちらはヤンキース首脳陣に残留を促すための代理人筋からの「アドバルーン」と見るべきでしょう。ですが、松井選手のこれまでの言動から見ると、そして優勝決定試合での1試合6打点、MVPという余りにも輝かしいドラマの結果が出てしまうと、ディコモ記者の言う「引退」という2文字についても「もしや」という気持が残るのです。今はただ、ヤンキース残留が叶わなかった場合に備えて、私たちはそれを受け入れる心の準備をしなくてはならないように思います。その理由に関しては、7月3日のエントリに書いたとおりです。

 それにしても、松井選手がヤンキースへの電撃移籍を果たして以来、丁度7年、この間に日本は大きく変わってしまいました。素晴らしい野球のドラマを、重苦しい雇用の問題に結びつけて述べるのは野暮かもしれません。ですが、あの2002年の秋のことを思い返して見ると、やはり時の流れを感じます。あの時には「終身雇用の日本にしがみつくのではなく、リスクを取って国際化を果たそう」という「夢」を多くの人が松井選手に託していたように思うのです。松井選手の成功にも関わらず、人々のその「思い」は7年を経てボロボロになってしまいました。人々が世界に羽ばたいてゆく機会は縮んで行く一方で、「脱却」の前提であるほど当然だった国内雇用の安定も失われてしまったからです。

 何が問題なのでしょう。2つあると思います。ワールドシリーズ最終戦の松井選手は、終身雇用の保証されない中でも日本人が個として輝く姿を見せつけました。松井選手は年収1300万ドル(12億円)を稼ぎ出す高額所得者には違いありません。ですが、仮に庶民には手の届かないエリートであっても、リスクのある世界で自分の実力で勝負している姿は感動を呼びますし、そうした姿は人々に前向きの力を与えます。ところが、日本の企業や官庁で起きているのは、リスクは全て賃金水準が低くワークライフバランスに苦しむ女性や若者に押しつけ、既得権益層はポストにしがみついているのです。これでは、社会全体に活力は出ません。

 もう1つ、松井選手は専門職です。バット一振り、一打席一打席に勝負をかける職人と言って良いでしょう。そのように専門技能を持っている人間が、雇用主と対等の立場を取って堂々と転職ができる、その点についても7年前には人々の「夢」を重ね合わせることができたように思います。ですが、こちらの「夢」もしぼんでしまっています。専門性が高く出来高的な報酬であればあるほど、デフレ現象の影響などを受けて収入は安く叩かれているのが現状です。本来は「手に職がある」人ほど、自分のプライドを安売りしないで生きて行けるはずであったのが、今では医師や教員さえもが押し潰されそうになって働く時代です。

 そんな2つの激しい流れの中、人々がヤンキースのユニフォームを着た松井選手の活躍に自分の夢を重ね合わせるというのは、7年前とは比較にならないほど難しくなっています。ですが、いやだからこそ、そして酷なようではありますが、松井選手には頑張って貰いたいと思います。残留するにしても、移籍するにしても、ここから先の道は困難を極めるでしょう。それでも、泥にまみれてもメジャーの一流投手達に挑み続けていって欲しいと思うのです。人一倍研ぎ澄まされた「美学」を持った松井選手ですが、今、時代が苦悩を背負っている中で「頂点を極めての引退」などというのは、カッコ良すぎると思うのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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