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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
イエール大医学生殺人事件の恐ろしさとは?
ここ数週間、アメリカでは東部の名門イエール大学(コネチカット州ニューヘイブン市)で起きた医学生殺人事件の話題でもちきりです。ベトナム系の医学系大学院生アニー・リーさん(博士課程)が白人男性との結婚式の直前に失踪したのは9月8日のことで、その少し後から全米のメディアは一斉にこの事件を報じ始めました。婚約者が怪しいであるとか、結婚に踏み切れない彼女が「ブルー」になって身を隠したとか、無責任な噂も流れる中、事態は最悪の結果となりました。
9月13日、結婚式が予定されていたちょうどその日に、リーさんの遺体は研究室の地下階で発見されたのです。容疑者は同じ研究室に働く職員の24歳のレイモンド・クラークという男で、様々なDNA鑑定の末に逮捕されたのは17日でした。ちなみに、この事件に関する報道が過熱していたために、9月16日の日本の鳩山政権発足は、TVのニュースでは完全に飛ばされてしまっています。
さて、イエール大学といえば、名門中の名門大学であり、その大学に取っては、この事件は危機以外の何物でもありません。特にこの時期は願書提出のシーズンであり、学校当局も非常に神経を遣っています。「ストーカー」とか「セクハラ」「性暴力」などというイメージは避けねばなりません。今時のアメリカの大学は理科系でも、亡くなったリーさんもそうであるように、優秀な女子学生に関しては激しい争奪戦を繰り広げているからです。そこで大学が行った説明は「この事件はどの職場にも起きうる不幸な同僚同士の紛争」だという言い方でした。そしてその説明はけっして言い逃れでも何でもなかったばかりか、事件の悲劇性を示しているとも言えるのです。では「どこの職場でも起きうる不幸な同僚間の紛争」というのは、一体何だったのでしょうか?
事件が起きたのは、医学系の実験施設でした。実験という中には動物実験が含まれており、そのためにラット(実験用動物として改良したネズミの変種)を大量に飼育していたのです。この動物実験というのは、非常に厳しい管理が必要です。というのは、ラットが病気や栄養失調になったら実験に使えなくなってコストがかかるからではありません。ラットの存在する意味というのは、何らかの実験、つまり病原菌や化学物質の投与、交配、環境の変化などの「作為」を行った「結果」として「変化」が起きるかどうかを「身をもって人間に教える」ために生育されているのです。
ですから、管理が悪く、環境が不衛生だったりすると「実験結果が歪む」のです。また実験施設全体の環境が悪化すると、施設全体の実験結果の信憑性がまとめて下がってしまうことにもなります。例えば、このイエールの場合はどうか分かりませんが、実験を終えた検体(動物)は何らかの物質や菌などを投与されていたり、人為的に環境変化の中に置かれていたりした「結果」を示したものですから2度と別の実験には使えません。ですから「安楽死させて焼却」という処理を「しなくてはならない」のです。
仮にその前に検体が死んでしまった場合には、その死体から何らかの細菌などが繁殖するようなことがあってはなりませんから、とにかくケージ(カゴ)の管理は厳重にしなくてはなりません。もちろん糞の始末や、食餌の管理、温度のチェックなどとにかく厳格な管理が求められます。さて、このイエールの場合では、クラーク容疑者はラット管理の専門職、殺されたリーさんは研究テーマをもった博士課程の学生という位置づけでした。そして、クラーク容疑者は職務に忠実な余り、周囲から「厳しすぎる」とか「感情的になることがある」と言われていたそうですし、実際にリーさんに対してはクラーク容疑者から「キミの担当しているケージが不潔なので困る」というクレームがあったようなのです。
そこには「実験環境が清潔でないと施設全体がダメになり自分の責任を問われる」というクラーク容疑者の利害と、これは推測ですが「ケージの掃除なんかより、限られた時間の中で研究成果を出したい」というリーさんの利害が対立したということは容易に想像できます。ちなみに、クラーク容疑者の身体および衣服には、膨大な種類のラットのDNAが付着しており、検査に時間がかかったのだそうです。まるで最新のミステリ小説のような展開です。
そうは言っても、こうした問題はどの研究施設にもあるはずです。日本では、長い間こうした「人の嫌がる地味な雑務」は、院生や学部学生が「ヒエラルキー制度」の下で無償でさせられていました。そうした雑用をこなすことを引き替えに、将来は助教授(今は准教授)になれるなどというベタベタした組織風土があり、その代わりそうした「ご褒美」があることで、雑用を引き受ける段階でのモラル低下が避けられていたのです。中には、教授が人間的にキチンとしたリーダーシップを発揮して、雑用をする院生などを家族的に扱い、研究室全体が(良い意味での)体育会的なモラルを維持していたケースも多いでしょう。
アメリカの場合は違います。大学教授が入試にも事務にもノータッチで教育と研究に専念できるのは、膨大な専門職員を抱えているからですし、この研究所の場合も、ラット管理者を専任で置くことで院生の負担を下げることができています。そして、恐らくそれは正しいのだと思います。例えば、博士課程在学中のリーさんが、悲劇に巻き込まれずに結婚して、例えば早期に出産育児をするにしても、基礎医学研究者のキャリアには支障を来さないのです。24時間研究室に貼り付くなどということをしないで、自分のテーマを追い、能力を磨きさえすれば良いのですから。
問題はどこにあったのでしょう。日本的な発想からすると、「指示命令を行い、かつ責任範囲が広い」ラット管理者が、大卒学位も要求されない低賃金の職で、「その指示を受ける」博士課程の学生には、学界や民間の研究者としてバラ色の将来があるという「逆転現象」が問題だったようにも思います。ですが、アメリカでは、特に大学という世界ではそんなことを気にしていたらやって行けないのです。学長の給与と花形教授の給与は逆転していることが多いですし、恐らく学内の最高給はフットボール部の監督だったりします。新進気鋭の理化学系講師の年俸が、事務職員の半分だったりというようなことも良くあります。
それでもアメリカの大学が大きな問題を起こさずに来たのは、「人間は平等」という意識をこれでもか、これでもかと叩き込んできたからです。アメリカの大学の「まとも」な教職員は、例えば清掃職員とすれ違ったら思い切り大袈裟に挨拶をするはずです。恥ずかしがって出来ない人は落第です。また清掃職員にしても、無視してくれた方が気が楽とか、偉い教授のその偽善的な態度が許せないなどという態度を示す人は失格なのです。厳しい競争の場だからこそ、その「人間は皆平等」という哲学を徹底することで、アメリカの組織は成り立ってきたのです。恐らく、このイエールの事件は、それが崩れつつあることを示しており、その点で社会に警鐘を鳴らしていると言って良いでしょう。
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