コラム

オバマから子供たちへのメッセージ

2009年09月09日(水)12時50分

 アメリカでは、9月の第1月曜日は「レーバーデイ(労働者の日)」という祝日で、その翌日の火曜日から多くの学校では新学期が始まります。もっとも新学期というのは不正確で、新学年と言うべきでしょう。この9月からが学校における新年度のスタートとなるわけで、5歳の子供が初めてスクールバスに乗る、あるいは大学へ進学する子供が親元を離れて旅立つといったドラマはこの「バック・トゥ・スクール」の季節に起こるのです。

 さて、この新学年に合わせて、オバマ大統領が全国の小学生から高校生に対して一斉にTVでスピーチをすると言い出したのは、先週のことです。ところが、このアイディアについては、発表後すぐに「反対」の大合唱に包まれました。共和党を中心とする反対派からすると、「医療保険問題で政治的に窮地に立っている大統領が子供を使って支持を盛り返そうとするのは許せない」とか「教育現場の政治利用を許すな」ということになるわけで、一時は実施が危ぶまれる事態になったのです。

 さすがに企画は潰れませんでしたが、大統領としては政治の話は一切抜き、しかも「保護者の方を安心させるため」ということで、事前に内容をホワイトハウスのサイトで公開するという慎重姿勢を取ることになりました。その内容ですが、問題の「医療保険論争」に関わるような発言は確かにありませんでした。ただ親の責任、子供の責任を訴えた部分で「政府は責任を全うします」という表現の中に、「公的医療保険制度の実現は政府の責任」というニュアンスが感じられました。非常に遠回しですが、微妙な表現でそれなりに意地を見せたというところでしょう。

 そんなわけで政治色抜きの演説となったのですが、内容はなかなか感動的でした。「皆さんまだ夏休み気分で、もう少し遅くまで寝ていたかったんじゃないでしょうか? 私もそうした気分は良く分かります・・・」冒頭はこんな風で「子供の視点から」というテクニックを思わせるものでしたが、実は「その眠たい気分」というのはすごい話なのです。「私の家族は私の小さい時に何年かインドネシアで過ごしたことがあります。その際に母は私にアメリカの教育を維持しようと思ったんですが、アメリカ人が行くような学校(注、いわゆるインターナショナルスクールのこと)は高くて行けないので、母は自分で教えてくれたんです」というパーソナルストーリーにいきなり行ったのです。

 その「お母さんの個人教授」というのは母親が仕事を持っていた関係で「毎朝4時半」に「台所のテーブルで」というものだったそうで、オバマ大統領自身眠くて大変だった、そういう風に話はつながっていったのでした。こうなると、オバマ節全開です。「私はシングルマザーの家庭に育ち、生きにくさを感じたこともありました」として良からぬことに走ったこともあるという「青春の告白」も交えながら、「私はいくらでも道を外れる可能性がありました。でも沢山のセカンドチャンスを与えてもらうことができ、最終的にサクセスできたのです」として、同じように貧困の中に育ったミシェル夫人共々、自分たちがアメリカの教育システムの申し子であることを宣言していました。

 その上で子供たち一人一人に「努力」を説くのですから、説得力があります。中でも「学校を辞めてはいけません」と厳しい調子で述べた後に「学習をあきらめる(クイット)ことは国を捨てることです」という激しいセリフまで飛び出しています。この部分でも、「ネバー・クイット(決してあきらめない)」という言葉のウラには「医療保険改革」の文字がチラチラと浮かんだのですが、それはともかく、たいへんに説得力のある内容でした。

 ただ「スピーチ反対運動」の波紋は色々な形で出ているようで、その晩のNBC「ナイトリー・ニュース」によれば、「学校に対して子供に政治家のスピーチを見せるな」と申し入れた親、「スピーチは見せるが、生徒の意見は大統領と異なっても構わないことを証明するために自由討論を設ける」学校、あるいは「学校が大統領のスピーチを見せないので、怒って子供に学校を休ませてTVで演説を見せている」親など、様々にマンガのような光景が紹介されていました。それはともかく、大統領が自ら子供たちに「努力せよ」と訴えるというのは良いことだと思いますし、その大統領自身がアメリカの教育の成功例だと自他共に認められる存在というのも素晴らしいことだと思います。

 日本もこの間、様々な教育論議が行われてきましたが、公的な教育費支出が先進国中最低なので、それを是正するというのは、前向きな議論だと思います。とにかく、これまで緊急避難的に私学や塾が担ってきた「訓練の生産性」を公教育が奪い返した上で、「答のない問題に取り組み、更に問題自体を発見してゆく」方向へと教育の舵を取ってゆく、そんな方向に予算を使って欲しいと思います。

 どこまで本当かは分かりませんが「運動会の徒競走に勝敗をつけないために一斉にゴールさせる」とか「高校2年生に数学3の教科書を渡すのは違法」などというバカバカしいことが今でも行われているのであれば、それは「人間が平等だ」と信じているからではなく「人間は元来不平等で差別被差別の関係を容易に作り出してしまう」という極端な悲観主義に汚染されているからだと思うのです。

 安倍政権などがイデオロギーを教育現場に持ち込んだ際には「国家の秩序を教え込むと同時に、能力主義による競争を」などという「大量生産志向の途上国型教育」を主張していました。これも時代とは完全にミスマッチでしたが、そのアンチが「徒競走で一斉にゴール」では困ります。とにかく、日本の民主党政権は実効のある、つまり「読み書きそろばん」の訓練をしっかりやった上で、最先端の抽象的思考力とコミュニケーション力まで向上させうるような意味のある教育を整備して欲しいと思います。

 この日のスピーチで、オバマ大統領は「子供にTVゲームばかりさせないのが親の努め」であり「宿題をやらない子供があってはならない」と強く訴えていました。こうした基礎能力の訓練の部分では、日本はアメリカよりずっと高い水準にあると誇ってきましたが、下手をすると追い越される危険もあると思います。対等な外交なるものを実現する、そのためにも唯一最高の資源である教育水準の維持は欠かせないはずです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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