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【写真特集】福島の酪農家、葛藤の9年間
ONE FAMILY'S 9-YEAR JOURNEY
Photographs by SOICHIRO KORIYAMA
津島から約40キロ離れた大玉村で馬の牧場を始めた三瓶利仙。毎朝4時半に起きて、馬の世話をする
<原発事故から9年――帰宅困難区域に自宅がある酪農家の夫婦は、故郷へ戻ることを諦め、新しい一歩を踏み出す決意をした>
東日本大震災の津波被害を受け、福島県で未曽有の原発事故が起きてから9年。東京電力福島第一原子力発電所では廃炉へ向けた工程が実現可能かどうかも分からないまま、周辺地域では放射性物質を含んだ汚染水が処分できずに増え続けている。いまだに溶け落ちた溶融燃料(デブリ)を確認することすらできない原子炉もあり、一向に先に進めない状態にある。
原発事故の被災者たちも同じだけの時間を過ごした。時が過ぎゆくことで、やっと先に進む決心ができた人もいる。事故直後から取材をしている元酪農家の三瓶利仙は今、「帰還困難区域にある自宅は諦めた」と語る。
利仙と妻の恵子、そして親戚の今野剛の9年間は、まさに葛藤の連続だった。放射線量が高い浪江町津島地区に暮らしていた三瓶夫妻と今野は、事故直後には牛を残して一時避難したものの、やはり牛を見捨てられないと思い、すぐに帰宅した。それからは自宅にある牛舎で、まさに命懸けで牛の世話を続けた。
幸運にも3カ月後に、津島から30キロほど離れた、より安全な本宮市に空いている牛舎を見つけ、牛を全て移動させることができた。ただ牛乳を出荷することは禁じられており、搾乳を行っても廃棄処分せざるを得なかった。利仙は当時、「酪農以外、私たちに何ができるというのか」と心情を吐露している。それでも夫妻は朝早くから、がむしゃらに牛の世話をした。
収入はなかったが、生活は何とか続けられた。東京電力から補償金を受け取っていたからだ。
恵子は補償金がまとめて入金された直後、通帳に記載された金額を見て、「何も状況は変わっていないのに......(仕事への意欲を失って)抜け殻のようになった」と話した。しかし、牛の命にも関わる牛舎の清掃と搾乳は欠かすことがなかった。
だが事故から5年という節目を前に、福島では酪農を続けるのが困難と判断した三瓶夫妻は、廃業することに決めた。ただ同じ牛舎で自分の牛の世話をしていた今野は、酪農も、津島の自宅へ帰ることも諦められず、独り仕事を続けることにした。
その後も三瓶夫妻と今野は、可能な限り津島の自宅に昼間一時的に戻り、いつか先祖が眠る故郷に帰る日のために掃除などを怠らなかった。
いま三瓶夫妻は、他の牛舎の手伝いや乗馬の世話など、互いに別の仕事に就いている。復興庁は2017年に浪江町内を貫く国道114号を開通させた。三瓶らも自宅に帰りやすくなった半面、一時帰宅の手続きが厳格になった。19年は3回しか帰宅しなかった。
こうした状況に三瓶夫妻は、人が消え、廃虚と化した故郷への思いが薄れていった。戻っても何もない――。原発事故から9年を経て、ついに2人は津島に戻ることを諦めてしまった。今野も津島の自宅に戻る日を目指して黙々と牛の世話を続けてきたが、もう自宅について口にすることはなくなった。
ただ、そんな3人の表情は、どこか吹っ切れたように見えた。「ようやく新しい一歩を踏み出せる気がする」。恵子はそう言った。
――写真:郡山総一郎(写真家)、文:山田敏弘(ジャーナリスト)
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