コラム

【大江千里コラム】還暦の僕からあの頃の「君」へ贈る言葉

2020年10月21日(水)16時30分

「赤いダウン」を着て還暦パーティーをした大江千里氏 SENRI OE

<9月に60歳になった大江千里氏は、ポップスの世界で人気を博した20代から現在までをどのように生きてきたのか。大江氏が、過去の自分―「君」―へのメッセージを通して振り返る>

9月6日、60歳になる日を友達の家で迎えた。還暦祝いなど頭にないのに「赤いダウン」をプレゼントされたので、記念に着て20歳の女の子とダンスを踊った。

現代の60歳は「高齢者」の部類には入らず働き盛りだ。とはいえ、60歳は若い頃からの生活習慣を見直したり、老後のことを具体的に考え始めたりといった「節目」に違いない。

せっかくなので60歳の自分から見て、20歳だった頃、30歳、40歳、50歳だった頃の自分―君―に言葉を掛けてみよう。

20歳の君は経済学部の学生だった。15歳でジャズを好きになりニューヨークに憧れたが、この頃はその想いも昇華されシンガーソングライターという夢に夢中でいる。授業そっちのけで組んだバンドでライブハウスをはしごしていると、レコード会社のプロデューサーと出会い、こう助言された。「君は歌詞が弱いから映画を見なさい」

それからは3本立て400円の映画館へ通い、一日中ノート片手に印象的なセリフをメモ。君は自分らしい言葉がなかなか見つからなくて焦っているけれど、心配は要らないよ。必ず書けるようになる。

30歳。初めて訪れた厳冬のニューヨークで、一瞬にして街の持つ魅力のとりこになる。レコーディングをニューヨークで何度も行ううち、アパートを借りて住む。公園のベンチで独り、セロニアス・モンクを聴いている君はどこか寂しげだ。

自分の音楽を多くの人に聴いてもらえるようになったのに、心が満たされないのはなぜ? そう自問自答している。バスケットボールを君に転がし、こっちへ投げ返してもらおうか。そのタイミングで、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「君は君の信じる道を行くといい」とつぶやこう。

40歳の君は、周りの大事な人たちが次々にいなくなり、喪失とあり余る創作意欲とのはざまにいる。30歳のときよりシリアスで悲しい目をしているね。限りある1回きりの人生をどう生きるか、すぐ先の道が分かれていることを既に分かっているのだろう。

バーのカウンターで隣り合わせたなら、僕は1杯だけ強めの酒をおごって何も交わさずそこにいる。

どこかで「君」とすれ違っていたのかも

君は47歳でアメリカに「ジャズ留学」し、50歳では念願のジャズ大学で20歳の学生たちに交じって再び夢中の日々を送る。吹っ切れたように明るいのに、どこかポップからジャズに来たことに引け目を感じている。

「堂々と」していればいい。若さは瞬間風速だ。君は負けない。心の熱の温度こそが自分を測る物差しだよ。

10年先にもジャズ山の途中で地団駄(じだんだ)踏んでいることはいま言うとかわいそうなので秘密だが、人生は君がいま思っているよりも本当にあっという間だから、「この先も失うことを恐れちゃいけない」とだけ伝えたい。

ニューヨークの街の中で、僕はどの年齢の君ともすれ違っていたのかもしれない。自転車でさっき通り過ぎたのが僕、なんていうふうに。

愛犬「ぴ」は相変わらず。裏手の通りにあるドッグストアでキャリーバッグを買ってきたところだ。早く君が60歳まで来るのを、首を長くして待っているよ。チャオ。

<2020年10月20日号掲載>

プロフィール

大江千里

ジャズピアニスト。1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー後、2007年末までに18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年、愛犬と共に渡米、ニューヨークの音楽大学ニュースクールに留学。2012年、卒業と同時にPND レコーズを設立、6枚のオリジナルジャズアルパムを発表。世界各地でライブ活動を繰り広げている。最新作はトリオ編成の『Hmmm』。2019年9月、Sony Music Masterworksと契約する。著書に『マンハッタンに陽はまた昇る――60歳から始まる青春グラフィティ』(KADOKAWA)ほか。 ニューヨーク・ブルックリン在住。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:保護政策で生産力と競争力低下、ブラジル自

ワールド

焦点:アサド氏逃亡劇の内幕、現金や機密情報を秘密裏

ワールド

米、クリミアのロシア領認定の用意 ウクライナ和平で

ワールド

トランプ氏、ウクライナ和平仲介撤退の可能性明言 進
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプショック
特集:トランプショック
2025年4月22日号(4/15発売)

大規模関税発表の直後に90日間の猶予を宣言。世界経済を揺さぶるトランプの真意は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    しゃがんだ瞬間...「えっ全部見えてる?」ジムで遭遇した「透けレギンス」投稿にネット騒然
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    【クイズ】売上高が世界1位の「半導体ベンダー」はどこ? ついに首位交代!
  • 4
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 5
    【渡航注意】今のアメリカでうっかり捕まれば、裁判…
  • 6
    「2つの顔」を持つ白色矮星を新たに発見!磁場が作る…
  • 7
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 8
    300マイル走破で足がこうなる...ウルトラランナーの…
  • 9
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 10
    今のアメリカは「文革期の中国」と同じ...中国人すら…
  • 1
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜け毛の予防にも役立つ可能性【最新研究】
  • 2
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ? 1位は意外にも...!?
  • 3
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最強” になる「超短い一言」
  • 4
    しゃがんだ瞬間...「えっ全部見えてる?」ジムで遭遇…
  • 5
    あなたには「この印」ある? 特定の世代は「腕に同じ…
  • 6
    パニック発作の原因とは何か?...「あなたは病気では…
  • 7
    中国はアメリカとの貿易戦争に勝てない...理由はトラ…
  • 8
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 9
    動揺を見せない習近平...貿易戦争の準備ができている…
  • 10
    【渡航注意】今のアメリカでうっかり捕まれば、裁判…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 6
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 8
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    「低炭水化物ダイエット」で豆類はNG...体重が増えな…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story