コラム

ソ連時代の呪縛から解き放たれていくイスラエルの夫婦の姿『声優夫婦の甘くない生活』

2020年12月17日(木)17時20分

ソ連時代の呪縛から解き放たれていく夫婦の姿が描かれる......『声優夫婦の甘くない生活』

<ロシア系移民の監督が、自分よりも上の世代の移民の複雑な心理をよく理解し、ソ連時代の呪縛から解き放たれていく夫婦の姿を実に鮮やかに描き出す...... >

ロシア系移民であるエフゲニー・ルーマン監督が手がけたイスラエル映画『声優夫婦の甘くない生活』では、イスラエル社会を変えるほど大きな影響を及ぼしたロシア系移民の体験と心理が、ひねりの効いた巧みな話術で掘り下げられていく。

物語は1990 年9月、"鉄のカーテン"が崩壊し、ソ連を離れた大勢の移民に交じってヴィクトルとラヤがイスラエルの空港に降り立つところから始まる。ふたりは、長年にわたってソ連で公開される欧米映画の吹き替えで活躍してきた声優夫婦だった。だが、希望を抱いてやって来た新天地には、声優の需要がなく、いきなり職探しに奔走することになる。ヴィクトルが慣れないビラ貼りで苦労するのを見かねたラヤは、夫には香水の販売と偽ってテレフォンセックスの仕事に就き、持ち前の力を発揮して様々な女性を演じ分け、売れっ子になる。一方、ヴィクトルは、街で見かけた海賊版レンタルビデオ店に飛び込み、声優として雇われる。

夫婦の生活はなんとか落ち着くかに見えたが、ラヤの秘密がばれてしまう。怒りが収まらない夫の心無い仕打ちに、彼女はこれまで抱え込んできた不満を爆発させ、家を出ていく。

ソ連崩壊、「世界の歴史でも有数の大規模な移住だった」

本作の冒頭には背景説明が盛り込まれてはいるが、簡潔すぎるようにも思えるので、いくらか補足しておきたい。ドナ・ローゼンタールの『イスラエル人とは何か ユダヤ人を含み超える真実』には、「イスラエル史上最大の移民の波」について、以下のように綴られている。

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『イスラエル人とは何か ユダヤ人を含み超える真実』ドナ・ローゼンタール 井上廣美訳(徳間書店、2008年)


 「いや、あれは世界の歴史でも有数の大規模な移住だったと言ってもいいだろう。ゴルバチョフ大統領が長年続いていた旅行の制限を一九八九年に緩和し、それに続いてソ連が崩壊した後、一〇〇万人以上の移民がイスラエルへと向かったのだ。驚くべきことではないが、この時の移民が全国民の二割を占めるようになったことで、イスラエルの姿はがらりと変わった」

この移住のピーク時には、失業率が40パーセントにもなり、多くの人々がヴィクトルやラヤのように苦労を味わった。しかし、筆者が本書のことを思い出したのは、背景が克明に記述されているからだけではない。

本書に盛り込まれたボリス・カッツという移民の体験は、本作の主人公と大いに接点がある。ボリスは17歳のときに家族とウクライナから移住したが、その二か月後に湾岸戦争が勃発した。ボリスはそのときの体験を以下のように語っている。


 「空襲警報が聞こえるたびに、家族五人がガスマスクを着けて、リビングルームに集まって縮こまってたんですから。本当に怖かったですよ。何が起きているのかまったく分からなくて。なにしろ、ラジオのニュースもテレビのニュースもヘブライ語だけなんですから。核爆弾なんじゃないかって思ったりして。そしたらある晩、通りをちょっと行ったところから爆発音が聞こえてきたんです。イラクのスカッドミサイルでした。どこで製造されたやつだと思います? ロシアですよ!」

本作でも、緊迫する湾岸情勢のニュースが流れ、ガスマスクやミサイル攻撃が鍵を握る。ボリスのコメントには、深刻な状況でありながらどこか滑稽さが漂っているが、本作の話術にもそれが当てはまる。それもそのはずで、ルーマン監督も少年時代に家族とともにベラルーシからイスラエルに移住し、その数か月後にミサイル攻撃が起こったのだ。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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