コラム

冷戦下の時代に翻弄される音楽と男女の軌跡を描く『COLD WAR』

2019年06月27日(木)15時15分

廃墟となった教会は、荒涼たる文化の砂漠であり、そこに立つカチマレクはまさに音楽を一から作り出そうとしている。しかし、共産主義体制下で地位を築こうとする彼は、音楽を作ると同時に歪められていく。

本作の物語が始まる1949年は、社会主義リアリズムという芸術を義務づける路線が決定された年にあたる。前掲書ではその社会主義リアリズムが、以下のように説明されている。


「この思潮の原則によれば、現代の芸術作品は──したがってそこには音楽作品も含まれる──社会主義的内容を民族的形式のうちに表現しなければならなかった」

本作では、音楽合唱舞踊団がワルシャワでの初舞台で成功を収めたあと、立役者の3人が大臣に呼び出され、農地改革、世界平和、平和の危機、指導者レーニンの賛歌など、新しいテーマをレパートリーに加えるよう要請される。

この場面も3人の反応に省略が生かされている。イレーナはすぐに要請を断るが、カチマレクが受け入れようとする。そこでイレーナは意見を求めるようにヴィクトルを見るが、彼は黙って目を伏せる。それにつづく音楽合唱舞踊団の公演の場面では、ヴィクトルがレーニンの賛歌の指揮をしている。

イレーナと信頼関係で結ばれていたヴィクトルは一体なにを考えているのか。やがて彼が、「東ベルリン、プラハ、ブダペスト、モスクワへも行ける」という大臣の言葉に密かに心を動かされていたことがわかる。彼は、まだ壁がなかった東ベルリンから西側へと渡る。

しかし、本作で音楽を歪めるのは、社会主義リアリズムだけではない。1957年にシチリア人と結婚して合法的にポーランドを出たズーラは、ヴィクトルと暮らし、レコード・デビューを果たす。だが彼女は、女流詩人がフランス語に翻訳した歌詞やジャズのアレンジに強い違和感を覚え、かつての自分たちの音楽が歪められているように感じるのだ。

監督自身の物語が埋め込まれる

本作では、そんな音楽をめぐる断片的なエピソードが最後の教会への複線になっていくが、さらにもうひとつ見逃せない要素がある。それは本作が、パヴリコフスキの両親にインスパイアされた物語であると同時に、彼自身の物語でもあり、独自の世界観や表現が埋め込まれているということだ。

1957年、ワルシャワ生まれのパヴリコフスキは、14歳のときに母親に連れられてポーランドを離れ、ドイツやイタリアで暮らした後、イギリスに定住し、近年はパリを拠点に活動していた。そんな彼が初めて祖国で作り上げた作品が『イーダ』だった。

その『イーダ』と本作には、パヴリコフスキ自身が知っていて、繋がることができる時代のポーランドを掘り下げていること以外にも、興味深い共通点がある。

60年代初頭を背景にした『イーダ』では、孤児として修道院で育てられた少女アンナが、おばから本当はイーダというユダヤ人であることを知らされ、出生の秘密を知るためにおばと旅に出る。パヴリコフスキは、そのおばを無神論者に設定し、対極の立場にあるふたりの主人公が共有する痛みを描き出した。

その図式は本作にもさり気なくではあるが、引き継がれている。ズーラのわずかな台詞を通して、彼女が神を信じ、教会を特別な場所と考えていることが示される。一方、彼女の言葉に反応しないヴィクトルには、信仰がないように見える。

そんなふたりが最後に教会に導かれるとき、季節は冬から夏に変わり、これまで歪められてきた音楽と愛が浮き彫りになると同時に、荒涼たる文化の砂漠からもうひとつの世界が切り拓かれることになる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

独クリスマス市襲撃、容疑者に反イスラム言動 難民対

ワールド

シリア暫定政府、国防相に元反体制派司令官を任命 外

ワールド

アングル:肥満症治療薬、他の疾患治療の契機に 米で

ビジネス

日鉄、ホワイトハウスが「不当な影響力」と米当局に書
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:アサド政権崩壊
特集:アサド政権崩壊
2024年12月24日号(12/17発売)

アサドの独裁国家があっけなく瓦解。新体制のシリアを世界は楽観視できるのか

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が明らかにした現実
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    おやつをやめずに食生活を改善できる?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    【駐日ジョージア大使・特別寄稿】ジョージアでは今、…
  • 5
    トランプ、ウクライナ支援継続で「戦況逆転」の可能…
  • 6
    「私が主役!」と、他人を見下すような態度に批判殺…
  • 7
    「たったの10分間でもいい」ランニングをムリなく継続…
  • 8
    コーヒーを飲むと腸内細菌が育つ...なにを飲み食いす…
  • 9
    「スニーカー時代」にハイヒールを擁護するのは「オ…
  • 10
    村上春樹、「ぼく」の自分探しの旅は終着点に到達し…
  • 1
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が明らかにした現実
  • 2
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──ゼレンスキー
  • 3
    村上春樹、「ぼく」の自分探しの旅は終着点に到達した...ここまで来るのに40年以上の歳月を要した
  • 4
    おやつをやめずに食生活を改善できる?...和田秀樹医…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    コーヒーを飲むと腸内細菌が育つ...なにを飲み食いす…
  • 7
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命を…
  • 8
    ウクライナ「ATACMS」攻撃を受けたロシア国内の航空…
  • 9
    【クイズ】アメリカにとって最大の貿易相手はどこの…
  • 10
    「どんなゲームよりも熾烈」...ロシアの火炎放射器「…
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が明らかにした現実
  • 3
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 4
    ロシア兵「そそくさとシリア脱出」...ロシアのプレゼ…
  • 5
    半年で約486万人の旅人「遊女の数は1000人」にも達し…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    「炭水化物の制限」は健康に問題ないですか?...和田…
  • 8
    ミサイル落下、大爆発の衝撃シーン...ロシアの自走式…
  • 9
    コーヒーを飲むと腸内細菌が育つ...なにを飲み食いす…
  • 10
    2年半の捕虜生活を終えたウクライナ兵を待っていた、…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story