コラム

イランの異才がサスペンスを装って表現したかったこと『誰もがそれを知っている』

2019年05月31日(金)17時00分

つまり、中流階級の生活が豊かで自由に見えても、そこにしっかりとした基盤があるわけではなく、いつ揺らぐかわからない。『彼女が消えた浜辺』に登場する中流の人々は、見せかけだけでエリを自分たちと同類だと勝手に思い込み、すんなりと受け入れるが、彼女が何者なのかわからなくなることで、自分たちを支えていた枠組みも崩壊していく。

土地をめぐる事実のせめぎ合い

本作は、そんなことを踏まえてみると、パコの人物像や立場が非常に興味深く思えてくる。その冒頭では、ワイナリーを営むパコが、ぶどうを収穫する労働者たちに指示を出す姿が映し出される。そんなパコは、ラウラの妹の結婚パーティーで歌い踊り、はしゃぎまくる。彼は経営者として成功を収め、人生を謳歌しているように見える。

しかし、誘拐事件をきっかけに、その人生が順風満帆ではないことが徐々に明らかになる。まず事件のせいで感情的になったラウラの老父が、土地をめぐる恨みをぶちまける。彼はかつて地主だったが、酒や賭け事が原因で土地を手放した。その土地があれば身代金をつくれたと思い、感情を爆発させるのだ。

そんな老父は、今にも心が折れそうなラウラを支えようとするパコに対して、このように言い放つ。


「一体、何様のつもりだ。立場をわきまえろ。自分の家でもないのに家族のように出入りしてる。勘違いするな。お前は使用人の息子だ。お前は村の誰よりも私に恩がある。我が物顔で"僕の農園"と自慢してるのは私のおかげで手に入れた土地だ。ラウラに無理やり土地を売らせた」

この最後の「無理やり」というのは事実ではない。ラウラには事情があり、パコに土地を売るしかなかった。だが、土地をめぐる問題はそれだけでは終わらない。

「土地」は本作の核になっているが、そこに話を進める前に思い出しておきたいのが、ダバシが前掲書でイランを「『国家』と呼ばれる人工的で無意味な構造のもとに押し込まれた、せめぎ合う『事実』の融合体」と表現していたことだ。それは、ファルハディ作品とも重なる視点であり、本作でも土地をめぐる事実のせめぎ合いが描き出されていく。

パコがラウラの事情で(おそらくは安価で)手に入れた土地は荒地だった。パコは何年もかけてその土地をぶどう畑に変えた。だから彼は胸を張っていいはずだが、他にも難しい問題がある。疲弊した村には仕事がない。そのためラウラのように村外の人間と結婚し、村を離れる女性は玉の輿といわれる。

そんな現実が、パコの立場を複雑にする。彼はワイナリーを営んでいるのだから人を雇えないことはない。だが村人たちは、パコに雇われて、炎天下で働かされることを快くは思わないだろう。だからパコは出稼ぎ労働者を雇うが、そうなると村人たちは、仕事を奪われていると密かに反感を持つ。

パコ自身もまた村人たちに対して密かに反感を持っているように見える。それは村の教会への寄付をめぐるエピソードから察することができる。かつてラウラの夫は、教会のファサードを修繕するために寄付を行った。いまは教会の時計と鐘楼が壊れていて、神父が寄付を募っている。パコには寄付する余裕があるはずだが、彼はまったく関心を示すことがない。

イランにおける中流階級を強く意識して

土地をめぐる状況がここまで緻密に描き込まれていれば、本作で鍵を握るのが決して秘密だけではないことがわかるはずだ。ファルハディは明らかに、イランにおける中流階級を強く意識してパコという人物像を構築している。石油が生み出す豊かさがワインに、世俗的で西欧化された生活という国外との繋がりが、パコが雇う出稼ぎ労働者に置き換えられていると見ればわかりやすいだろう。

そんな状況で誘拐事件が起こったとき、閉鎖的な村のなかで土地をめぐってせめぎ合う事実が、じわじわとパコを追いつめ、その豊かな生活が土台から崩れていく。

ダバシは、イランにつきまとう違和感を、前掲書で以下のように表現している。


「私はこの違和感、他の場所で事が起こっているにもかかわらずふいに宙吊りにされ、本来いるべきではないところに据えられてしまった、という感覚を何としてでも捉え、伝えたいと思っている」

ファルハディは、スペインを舞台にした本作で、秘密をめぐるヒューマン・サスペンスを装いつつ、パコという人物を通してそんな違和感を実に見事に再現している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:またトランプ氏を過小評価、米世論調査の解

ワールド

アングル:南米の環境保護、アマゾンに集中 砂漠や草

ワールド

トランプ氏、FDA長官に外科医マカリー氏指名 過剰

ワールド

トランプ氏、安保副補佐官に元北朝鮮担当ウォン氏を起
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 2
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 3
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたまま飛行機が離陸体勢に...窓から女性が撮影した映像にネット震撼
  • 4
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 5
    「ダイエット成功」3つの戦略...「食事内容」ではな…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 8
    「何も見えない」...大雨の日に飛行機を着陸させる「…
  • 9
    クルスク州のロシア軍司令部をウクライナがミサイル…
  • 10
    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 3
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    メーガン妃が「輝きを失った瞬間」が話題に...その時…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 9
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story