イランの異才がサスペンスを装って表現したかったこと『誰もがそれを知っている』
つまり、中流階級の生活が豊かで自由に見えても、そこにしっかりとした基盤があるわけではなく、いつ揺らぐかわからない。『彼女が消えた浜辺』に登場する中流の人々は、見せかけだけでエリを自分たちと同類だと勝手に思い込み、すんなりと受け入れるが、彼女が何者なのかわからなくなることで、自分たちを支えていた枠組みも崩壊していく。
土地をめぐる事実のせめぎ合い
本作は、そんなことを踏まえてみると、パコの人物像や立場が非常に興味深く思えてくる。その冒頭では、ワイナリーを営むパコが、ぶどうを収穫する労働者たちに指示を出す姿が映し出される。そんなパコは、ラウラの妹の結婚パーティーで歌い踊り、はしゃぎまくる。彼は経営者として成功を収め、人生を謳歌しているように見える。
しかし、誘拐事件をきっかけに、その人生が順風満帆ではないことが徐々に明らかになる。まず事件のせいで感情的になったラウラの老父が、土地をめぐる恨みをぶちまける。彼はかつて地主だったが、酒や賭け事が原因で土地を手放した。その土地があれば身代金をつくれたと思い、感情を爆発させるのだ。
そんな老父は、今にも心が折れそうなラウラを支えようとするパコに対して、このように言い放つ。
「一体、何様のつもりだ。立場をわきまえろ。自分の家でもないのに家族のように出入りしてる。勘違いするな。お前は使用人の息子だ。お前は村の誰よりも私に恩がある。我が物顔で"僕の農園"と自慢してるのは私のおかげで手に入れた土地だ。ラウラに無理やり土地を売らせた」
この最後の「無理やり」というのは事実ではない。ラウラには事情があり、パコに土地を売るしかなかった。だが、土地をめぐる問題はそれだけでは終わらない。
「土地」は本作の核になっているが、そこに話を進める前に思い出しておきたいのが、ダバシが前掲書でイランを「『国家』と呼ばれる人工的で無意味な構造のもとに押し込まれた、せめぎ合う『事実』の融合体」と表現していたことだ。それは、ファルハディ作品とも重なる視点であり、本作でも土地をめぐる事実のせめぎ合いが描き出されていく。
パコがラウラの事情で(おそらくは安価で)手に入れた土地は荒地だった。パコは何年もかけてその土地をぶどう畑に変えた。だから彼は胸を張っていいはずだが、他にも難しい問題がある。疲弊した村には仕事がない。そのためラウラのように村外の人間と結婚し、村を離れる女性は玉の輿といわれる。
そんな現実が、パコの立場を複雑にする。彼はワイナリーを営んでいるのだから人を雇えないことはない。だが村人たちは、パコに雇われて、炎天下で働かされることを快くは思わないだろう。だからパコは出稼ぎ労働者を雇うが、そうなると村人たちは、仕事を奪われていると密かに反感を持つ。
パコ自身もまた村人たちに対して密かに反感を持っているように見える。それは村の教会への寄付をめぐるエピソードから察することができる。かつてラウラの夫は、教会のファサードを修繕するために寄付を行った。いまは教会の時計と鐘楼が壊れていて、神父が寄付を募っている。パコには寄付する余裕があるはずだが、彼はまったく関心を示すことがない。
イランにおける中流階級を強く意識して
土地をめぐる状況がここまで緻密に描き込まれていれば、本作で鍵を握るのが決して秘密だけではないことがわかるはずだ。ファルハディは明らかに、イランにおける中流階級を強く意識してパコという人物像を構築している。石油が生み出す豊かさがワインに、世俗的で西欧化された生活という国外との繋がりが、パコが雇う出稼ぎ労働者に置き換えられていると見ればわかりやすいだろう。
そんな状況で誘拐事件が起こったとき、閉鎖的な村のなかで土地をめぐってせめぎ合う事実が、じわじわとパコを追いつめ、その豊かな生活が土台から崩れていく。
ダバシは、イランにつきまとう違和感を、前掲書で以下のように表現している。
「私はこの違和感、他の場所で事が起こっているにもかかわらずふいに宙吊りにされ、本来いるべきではないところに据えられてしまった、という感覚を何としてでも捉え、伝えたいと思っている」
ファルハディは、スペインを舞台にした本作で、秘密をめぐるヒューマン・サスペンスを装いつつ、パコという人物を通してそんな違和感を実に見事に再現している。
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