コラム

『彼が愛したケーキ職人』、エルサレムを舞台に国籍や宗教を超えてめぐり逢う男と女

2018年11月30日(金)17時50分

厳格なユダヤ教徒の家庭でゲイであること

それを明らかにするためには、この映画の導入部を振り返っておく必要がある。そこには、短い時間のなかに伏線といえるものがちりばめられているからだ。

トーマスとオーレンは、どのようにして親密な関係になったのか。この導入部では、当然描かれるであろうその過程が大胆に省略されている。その代わりに印象に残るのが、生地をこねるという行為だ。

映画の冒頭では、なにかを象徴するように生地をこねる両手がアップで映し出される。親密な関係になったふたりが、トーマスのアパートで最後に一緒に過ごす場面でも、急遽帰国することになったオーレンのために、トーマスがキッチンで生地をこねはじめる。オーレンはいつも彼が作ったシナモンクッキーを妻への土産にしているからだ。しかし、オーレンは、そのクッキーと鍵を忘れて帰国の途についてしまう。

この導入部がなにを意味しているのかは、映画の後半で、それまで空白だったトーマスの生い立ちが少しだけ明らかにされることで、察せられるようになる。彼は子供の頃から「足るを知る」という教えに従ってきた。そんな彼にとって、生地をこね、クッキーやケーキを焼くという日々の営みは、単なる職業ではなく、生きる糧になっている。

そう考えると、クッキーを焼いたことでマティから糾弾されたときに、ほとんど感情を表に出さないトーマスが血相を変えるのも頷ける。彼は、文化の違いを思い知らされるのではなく、自分の存在そのものを否定されたような屈辱を覚えている。そんな彼の立場は、厳格なユダヤ教徒の家庭やコミュニティのなかで、ゲイであることを隠さなければならなかったオーレンにも通じる。そして、トーマスのアパートに残されたクッキーと鍵も別な意味を持つことになる。

真実に向き合えるかどうかを試される

では、アナトは、トーマスのクッキーやケーキになにを感じているのか。それを象徴的に表現する興味深い場面がある。安息日にトーマスを自宅に招き、食事をともにした後でひとりになった彼女は、テーブルを片付ける前に、トーマスが作ってきたケーキの残りを食べ始め、皿まで舐めてしまう。

グレイツァ監督は、家の外からガラス戸を通して、そんな彼女の姿をとらえている。彼女は、ケーキに深く心を揺さぶられているが、同時に、枠の中に押し込まれてもいる。あるいは、枠の外に踏み出そうとはしていないと見ることもできる。

アナトは、トーマスが初めて彼女の店を訪れたときに交わした会話で、彼がベルリンからやって来たことを知っている。そんなトーマスが、オーレンのベルリン土産を思い出させるようなクッキーを作れば、単なる偶然とは思えなくなるだろう。だが彼女は、自分が受け入れられないかもしれない真実を知ることを恐れてもいる。

トーマスは黙々と生地をこねつづける。その生地からできるクッキーやケーキを通して、彼に惹きつけられていくアナトは、真実に向き合えるかどうかを試されることになる。


『彼が愛したケーキ職人』
公開:12月1日(土)、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
(C)All rights reserved to Laila Films Ltd.2017

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

独成長率、第4四半期速報0.1%減 循環・構造問題

ワールド

米国の新たな制裁、ロシアの石油供給を大幅抑制も=I

ビジネス

ユーロ圏鉱工業生産、11月は前月比+0.2%・前年

ワールド

インドネシア中銀、0.25%利下げ 成長支援へ予想
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン」がSNSで大反響...ヘンリー王子の「大惨敗ぶり」が際立つ結果に
  • 4
    「日本は中国より悪」──米クリフス、同業とUSスチ…
  • 5
    ド派手な激突シーンが話題に...ロシアの偵察ドローン…
  • 6
    大麻は脳にどのような影響を及ぼすのか...? 高濃度の…
  • 7
    日鉄はUSスチール買収禁止に対して正々堂々、訴訟で…
  • 8
    ロシア軍高官の車を、ウクライナ自爆ドローンが急襲.…
  • 9
    TikTokに代わりアメリカで1位に躍り出たアプリ「レ…
  • 10
    中国自動車、ガソリン車は大幅減なのにEV販売は4割増…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分からなくなったペットの姿にネット爆笑【2024年の衝撃記事 5選】
  • 4
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 5
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 6
    ロシア兵を「射殺」...相次ぐ北朝鮮兵の誤射 退却も…
  • 7
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「…
  • 8
    装甲車がロシア兵を轢く決定的瞬間...戦場での衝撃映…
  • 9
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 10
    トランプさん、グリーンランドは地図ほど大きくない…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story