コラム

麻薬と貧困、マニラの無法地帯を生きる女の物語『ローサは密告された』

2017年07月28日(金)17時30分

警察署で追いつめられたローサは、仕方なく売人を密告する。その売人は、取引を除けば彼女とは縁もゆかりもない人間だが、では邦題にあるように、ローサを密告したのは何者なのか。映画の後半で、それが、家族同然のような付き合いをしている人間であることがわかる。警官たちには、密告する者とされる者の関係などどうでもいいことだが、ローサや家族はそれではすまない。

このドラマは、密告の連鎖によって、親密な共同体が疑いに支配され、荒廃していくことを想像させる。そして、先ほど手持ちカメラによってスラムの日常がリアルに描き出されると書いたが、実はこの映画で手持ちカメラが最大の効果を発揮するのは、スラムの場面ではない。

ローサと夫が連行されるのは、警察署であって警察署ではない。夫婦を乗せた警察車両は警察署の前の駐車場に止まるが、警官たちは正面玄関には向かわず、建物の脇を通って裏手に回り込み、薄暗い空間を奥へ奥へと進んでいく。ローサは思わず「なぜ、こっちに」と囁くが、どうすることもできない。

その先にあるのは、警官たちが自分たちのために準備した分署だ。そこなら、取調べそっちのけで交渉が進められる。麻薬の横流しや恐喝も思いのままだし、暴力に訴えることも容易い。大物を釣り上げ、金が入れば、すぐに宴会が開ける。

手持ちカメラが効果を発揮するのは、警官や犯罪者とその家族がこの分署を出入りする場面だ。メンドーサは、彼らが移動する姿を手持ちカメラの長回しで何度となく映し出す。彼らはみな警察署の正面玄関を素通りする。その玄関をくぐるのは、押収した金の一部を署長に届ける警官と、連行された両親に会うために警察署を訪れるローサの子供たちくらいのものだ。だが、その受付にはもちろん、両親が連行された記録はない。

この手持ちカメラの長回しは、繰り返されることで異様な空気を生み出し、警察署がただの飾りになっていること、腐敗の深い闇に囚われれば容易には抜け出せないことを象徴する表現になっていく。ローサのような立場の人間は、警察にいながら、警察に救いを求めようとすれば、自分の身を危険にさらすことになる。彼女はそれを分署で目の当たりにするのだ。

苦境に立つ女性を掘り下げる

さらに、もうひとつ見逃せないのが、ヒロインに対するメンドーサの眼差しだ。この映画でローサを演じたジャクリン・ホセは、カンヌ映画祭で主演女優賞に輝いている。これまでも彼の作品はしばしば女優賞に絡んできたが、それは彼が苦境に立つ女性を掘り下げようとしているからだろう。

『グランドマザー』(09 )では、孫を殺された祖母とその事件の容疑者の祖母が主人公になる。彼女たちはどちらも貧しく、前者は孫の葬儀代を、後者は孫の保釈金を工面するために奔走する。スラムではなく、フィリピン最南端のイスラム地域を舞台に、漁師夫婦を描く『汝が子宮』(12)では、子宝に恵まれない妻が夫のために、第2夫人探しに尽力する。助産婦でもある彼女は、最終的に辛い立場に追いやられるが、黙々と自分の役割を果たす。

この映画のローサには、そうしたヒロインに重なる部分があるが、引き裂かれかけた家族を繋ぎとめる者としての存在感がより鮮明に浮かび上がる。切迫した状況のなかでずっと表情を変えなかった彼女が、最後に感情を露にする場面は、忘れがたい印象を残すに違いない。


『ローサは密告された』
(c) Sari-Sari Store 2016
公開:7月29日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏とゼレンスキー氏が「非常に生産的な」協議

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口の中」を公開した女性、命を救ったものとは?
  • 3
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 4
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 5
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 6
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 7
    足の爪に発見した「異変」、実は「癌」だった...怪我…
  • 8
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 9
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 10
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 3
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 4
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?.…
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 8
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    【クイズ】世界で最もヒットした「日本のアニメ映画…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story