女性脱北ブローカーの数奇な運命を追ったドキュメンタリー『マダム・ベー』
これに対して、韓国で共同生活を始めたマダム・ベーと北朝鮮の夫、息子たちの間には、どこかよそよそしい空気が漂っている。会話も弾まない。清掃の仕事をするマダム・ベーには生気が感じられず、ふさぎ込んでいるように見える。その原因は、彼らが長い間、離れ離れになっていたからだけではない。
脱北者を装った北のスパイ、という事件が背景に...
もっと重要な原因が他にあるが、そこに話を進めるまえに、映画では言及されないある出来事を頭に入れておいてもよいだろう。この映画は、2013年2月にマダム・ベーがブローカーとして、ある脱北者を韓国に送り出す場面から始まるが、同じ年の1月に韓国では、ソウル市職員が国家保安法違反の罪に問われ、国家情報院に連行される事件が起こっていた。彼は、脱北者を装った北のスパイで、韓国在住の脱北者の情報を北朝鮮に渡したとされた。ところが後に、彼が一緒に暮らすために韓国に呼び寄せた妹の証言が不当な取り調べで得られたものであることや、出入国管理記録が捏造であることが明らかになった。
さらに、この事件に関連して、今年の1月に公開されたキム・ギドク監督の『The NET 網に囚われた男』(16)のことも思い出しておきたい。なぜなら、このスパイ事件にインスパイアされているように思えるからだ。
この映画では、北朝鮮の漁師がいつものように漁に出たものの、ボートが故障して韓国に流されてしまう。韓国の当局に拘束された彼は、スパイ容疑で情け容赦ない取り調べを受ける。そして、ようやく解放され、北に戻れたと思ったら、今度は二重スパイ扱いされる。キム・ギドクはそんな物語を通して、分断が生み出す歪んだ力が、ひとりの人間をどのように押し潰していくのかを描き出している。主人公は家族のもとに帰っても、もう以前のような関係を取り戻すことはできないのだ。
但し、この映画の場合は、着眼点や狙いは素晴らしいが、作り込みすぎているためにドラマがいささか図式的になってしまっている。これに対して、『マダム・ベー〜』にも共通する狙いがあり、しかも成功を収めている。ユン・ジェホ監督は、キム・ギドクが執拗に描いたものを大胆に省略し、私たちに想像させる。
分断が生み出す歪んだ力に押し潰される家族
韓国に生きるマダム・ベーの胸にわだかまりがあることは、中国の夫が相手と思われる電話の会話から察せられる。彼女は、非保護対象と認定され、家が与えられないため息子のところに居候している。しかし、家がなくても生きられるが、それよりも悔しい思いを晴らしたい。彼女は電話でそんなことを語る。
この映画では、彼女がそれ以上のことを語る場面はないが、それが何を意味するのかは前後の映像から推測できる。この電話の場面の少し前では、彼女の息子が「母が中国で麻薬をさばいていたとか、北と連絡をとりあっていたとか、スパイ容疑をかけられた」と語っている。電話の場面の直後には、地下鉄の車内モニターに、スパイや麻薬密売人を通報するように呼びかけるメッセージが流れる。
しかし、彼女が悔しく思っているのは、自分に対する仕打ちだけではない。この映画の冒頭では、映像が映し出される前に、こんなモノローグが流れる。「母さんがこんなで苦労かけるね、あの人たちの言うことは信じないで、何を言われても信じちゃいけない、あなたが濡れ衣を着せられたら、それは私のせい、私のこと、悪く言ってもいいから、許してちょうだい」
つまり、韓国で再会はしたものの、一家がみな、分断が生み出す歪んだ力に押し潰され、もはや昔のような関係を築けなくなっている。特に、これまで苦難の道程を歩んできたマダム・ベーには、もはや韓国で生きる意味がなにもなくなっている。たとえ望まない結婚から生まれた関係であっても、中国の家族の方がはるかに人間的で、そこに温もりがある。この映画で浮き彫りにされるふたつの家族のコントラストには、分断の現実に対する痛烈な批判が込められている。
《参照文献》
『生きるための選択』パク・ヨンミ 満園真木訳(辰巳出版、2015年)
『7つの名前を持つ少女 ある脱北者の物語』イ・ヒョンソ 夏目大訳(大和書房、2016年)
『マダム・べー ある脱北ブローカーの告白』
(C)Zorba Production, Su:m
公開:6月10日、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
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