コラム

ルーマニアの歪んだ現実を掘り下げる『エリザのために』

2017年01月16日(月)17時30分

 そして、父親の言葉にあるように、山は動かなかった。革命以後も、共産主義時代の負の遺産が、政治的にも経済的にも清算されることなく引き継がれたからだ。前掲同書には、その問題の根深さが以下のように綴られている。


「権力の集中と特権の構造はチャウシェスクの没落ののちまでしぶとく生き延びた。強制、恐怖、疑惑、不信、離反、分断、超民族主義といった政治文化がルーマニアで克服されるまでには長い時間が必要である。結局のところこうした文化は、半世紀にもおよぶ共産主義支配によってさらに強化される前から、すでにルーマニアの伝統となっていたからである」

 そんな現実を踏まえるなら、『私の、息子』は、革命以後も特権を享受しつづける家族の目を通して社会を描き出す作品といえる。分断され、反目し合う社会では、人脈や賄賂がものをいう。息子が起こした事故の供述調書を強引に書き換えようとする母親に反感を持っていた警官が、いつの間にか持ちつ持たれつの関係になっている。さらに、特権を振りかざす母親に反抗しているように見えた息子も、疑惑や恐怖の政治文化に呪縛されていることが明らかになる。

秩序が揺らぎ、分断された社会での生活

 これに対して『エリザのために』は、自由を奪われた家族の目を通して社会を描く作品といえるが、この映画でまず印象に残るのは、主人公たちを取り巻く不穏な空気だ。冒頭では一家の家に石が投げ込まれ、窓ガラスが割られる。その後も、車のワイパーにいたずらされたり、フロントガラスが割られるといった出来事がつづく。ドラマでは、付近に潜伏する逃亡犯のことが頻繁に話題にのぼる。エリザが襲われた現場付近の防犯カメラには、事件を見て見ぬふりをする通行人たちの姿が記録されている(プレスに収められた監督インタビューによれば、ブカレストで実際に起こった事件がこの映画を作るきっかけになったという)。

 この家族のドラマは、そんな秩序が揺らぎ、分断された社会で生活するなかで、彼らの関係が歪んでいったことを想像させる。父親はおそらくこれまでにも、自分の地位を守るために妥協を強いられ、惨めでも正しく生きようとする母親に対して反感を抱いている。その結果、愛人に慰めを求め(エリザが襲われたときにも、彼は愛人と過ごしていた)、独善的な人間になっていった。もともと民主化に期待して帰国した彼は、内心では葛藤に苛まれているが、それでも母親には「娘のためなら喜んで信念も捨てる」と言い放ち、特権の構造という泥沼にはまっていく。

 そんな父親の姿を見ていると、エリザ本人がそこまで留学を望んでいるのか、娘をどうしても海外に出したい父親が半ば押しつけているのかわからなくなる。もしロメオのような親の世代が、絶望するあまり自分の国を見放し、子供の世代にも同じ価値観を植えつけていけば、変革はさらに遠のくことだろう。留学をめぐって困難な選択を迫られた父親と娘は、それぞれに家族の関係を見つめ直していく。そんなドラマには、ルーマニアの未来に対するムンジウの危機感が表れている。

○参考資料
『現代東欧史 多様性への回帰』ジョゼフ・ロスチャイルド 羽場久浘子・水谷驍訳(共同通信社、1999年)

○『エリザのために』
公開:2017年1月28日(土)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開
(C) Mobra Films - Why Not Productions - Les Films du Fleuve - France 3 Cinéma 2016

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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