コラム

ルーマニアの歪んだ現実を掘り下げる『エリザのために』

2017年01月16日(月)17時30分

クリスティアン・ムンジウ監督『エリザのために』

<ルーマニア革命から四半世紀。チャウシェスク時代の負の遺産は根深い。秩序が揺らぎ、混迷する社会で全てをかけて娘を守ろうとする父親が直面する現実...。クリスティアン・ムンジウ監督はカンヌ映画祭監督賞を受賞した>

 ルーマニア映画のニューウェーブを牽引するクリスティアン・ムンジウ監督の新作『エリザのために』は、カンヌ映画祭で監督賞に輝いた。ムンジウはこれまでにカンヌで、『4ヶ月、3週と2日』(07)がパルムドールに、『汚れなき祈り』(12)が女優賞&脚本賞に輝いているので、今回が3度目の受賞ということになる。

 ルーマニア北西部の都市クルージュを舞台にしたこの新作では、両親と一人娘の三人家族の物語が、父親と娘の関係を中心に描かれる。映画は、医師である父親ロメオが、イギリス留学を控える娘エリザを車で学校に送っていく場面から始まる。ロメオは学校の手前で娘を降ろし、彼女は徒歩で学校に向かう。だが、そのわずかな距離の間に人通りもある路上で彼女は暴漢に襲われてしまう。

 その一件は大事には至らなかったが、エリザは動揺を抑えられないまま翌日から始まる卒業試験に臨まなければならない。優秀な成績を収めてきた彼女は、何もなければ合格点を取り、ケンブリッジの奨学生になれるはずだった。そこでロメオは娘の夢を叶えるため、人脈を使って警察署長、副市長、試験官らに働きかけ、ある条件を飲むことで、もしもの場合に彼女が合格点を取れるように手を打つ。このムンジウの新作は、同じルーマニア映画で、ベルリン映画祭で金熊賞に輝いたカリン・ペーター・ネッツアー監督の『私の、息子』(13)と対比してみると興味深い。

1989年の革命以後の現実を掘り下げる

 ブカレストを舞台にした『私の、息子』では、母親と息子の関係が描かれる。母親は、各界の名士と交流を持つ建築家/舞台装置家のコルネリア。息子は、30歳を過ぎても道が定まらないバルブ。母親に反抗しながらも、親から与えられた家でシングルマザーの恋人と暮らしている。そんな息子がある日、スピードの出し過ぎで交通事故を起こし、子供を死なせてしまう。そこでコルネリアは、人脈や賄賂など、どんな手段を使ってでも息子の刑務所行きを回避しようとする。

 共通点を持つふたつの物語は、ルーマニアの社会や歴史と密接に結びついている。ニューウェーブの作品は、独自の視点で1989年の革命以後の現実を掘り下げていく。『エリザのために』には、そんな革命以後の現実を私たちに意識させる場面がある。是が非でも娘に合格点を取らせたいロメオは、彼女を説得するためにこんな話をする。


「1991年、民主化に期待し母さんと帰国したが、失敗だった。自分たちの力で山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない、やれることはやった。でも、お前には別の道を歩んでほしい」

 エリザの両親は、チャウシェスク時代には海外に逃避し、民主化に期待して戻ってきたらしい。では、父親の言う「山」とはどのようなものだったのか。チャウシェスクの支配とは、秘密警察による弾圧や個人崇拝の強要だけではない。政治学者ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』には、チャウシェスクが80年代末まで権力を維持できた事情が、以下のように説明されている。


「これは、社会を黙らせて個々ばらばらにし、教会の弱さと従順を利用し、労働者と農民、労働者とインテリゲンチア、ルーマニア人と少数民族(おもにハンガリー人とロマ)、軍と警察、国家機構と党機構、これら官僚と自分の一族、その他を相互に、またそれぞれの内部で反目させる、彼の戦術の巧みさのおかげだった」

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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