ロシアの苛烈な現実を描き、さらに神話の域へと掘り下げる映画
『裁かれるは善人のみ』の物語は、ふたつの点で神話と深く関わっている。『マザー・ロシア』では、キリスト教化の起源について以下のように説明されている。
「キエフ大公ヴラジーミルは九八八―九八九年に自分の臣民にビザンツのキリスト教を強制した。野心ある取引者=公は、ビザンツ教会と国家の結びつきをひとつの手段、すなわち自らの支配が神聖な裁可によって支持されていることをキエフの農民だけでなく都市のエリートにも納得させる手段として利用した」この映画における市長と司祭の関係には、現代のロシアが反映されているだけではなく、国家と教会の政治的な結びつきが繰り返されてきたものであることを示唆している。そして、もうひとつの重要な点が、「ビザンツのキリスト教は、ローマのカトリシズムに劣らず女性嫌いだった」ということだ。それはもちろん、父権的権力に根を持っているからだ。
そこで、この映画に登場する後妻のリリアに注目してみると、土地買収をめぐる対立とは異なる世界が浮かび上がってくる。見逃せないのは、映画の冒頭からリリアが本心では町を離れたがっているということだ。それはなぜなのか。夫のコーリャと隣人たちとのやりとりを見れば察しがつく。たとえばコーリャは、警官の地位を笠に着て金も払わずに車の修理を頼んでくる隣人に苛立ちを隠さない。その男のことを「女房をふたり、早死にさせた暴君だ」とまで言う。にもかかわらず、その男が先頭に立って行う"狩り"という憂さ晴らしには他の仲間とともに喜んで参加する。コーリャや隣人たちは率先して教会に通うような人間ではないが、ミソジニー(女性嫌悪)と表裏の関係にある男同士のホモソーシャル(同性間の社会的な絆)な連帯が習慣として染みついている。
リリアはそんなコミュニティのなかで深い疎外感に苛まれ、追いつめられ、悲劇の連鎖に巻き込まれていく。そして、そんな彼女の運命を際立たせるのが、人間と自然の関係だ。男たちが"狩り"と呼ぶ憂さ晴らしは、銃を撃ちまくるだけで、動物や自然とは結びついていない。舞台となる町では、廃墟となった共同住宅や朽ち果てた廃船が目につき、浜には白骨化したクジラが放置されている。だがこの映画には、岩場に立ち、海と向き合うリリアが、生きたクジラを目にする瞬間がある。それはあまりにも儚い時間ではあるが、壮大な自然と女性が結びついた神話的な世界から見れば、強大な権力もホモソーシャルな連帯も卑小で空虚なものに感じられる。
●『マザー・ロシア――ロシア文化と女性神話』ジョアンナ・ハッブズ
坂内徳明訳(青土社、2000年)
●映画情報
『裁かれるは善人のみ』
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
公開:2015年10月31日 新宿武蔵野館ほか
2014年カンヌ国際映画祭脚本賞、2015年ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞
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