なぜ世界中の人が「日本アニメ」にハマるのか?...鬼滅にエヴァ、ジブリに隠された「思想と哲学」に迫る
The Deep Draw of Anime

『鬼滅の刃』のキャラクター(冨岡義勇、煉獄杏寿郎、胡蝶しのぶ)Usa-Pyon-shutterstock
<「煉獄さん」の炎の呼吸が象徴する二重性、猗窩座の身体を覆う入れ墨の意味、碇シンジの苦悩が描き出す仏教思想──世界を魅了するアニメの奥深さ>
私は長年、日本のアニメについて研究し、物語が文化・哲学・宗教の伝統とどう絡んでいるかを探ってきた。日本アニメの最大の魅力の1つは、手に汗握るアクションと深遠な精神的・倫理的な問題とを融合し得るところだ。
最たる例が『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(2020年、英題:Demon Slayer: Mugen Train)だ。
日本国内興行収入ランキング歴代トップ、20年の世界年間興行収入でも1位に。その後も快進撃を続けるこの作品が、いかに仏教・神道・武士道の伝統を結び付けヒロイズムと無常と道徳的葛藤の物語を作り上げているかを探ってみよう。
アニメはしばしば、宿命、自己犠牲、欲と義務との葛藤について吟味するため、日本の宗教的伝統を引き合いに出して、精神的・哲学的な問いを探究する。
例えば、宮﨑駿監督の『もののけ姫』(1997年、英題:Princess Mononoke)では、タタリ神を殺して呪いを受けた青年アシタカが呪いを解く方法を探して旅をする。自然を神聖で「神」(精霊)の宿る場とみる神道の原理を反映し、人間と環境の調和、そしてこの均衡が崩れたらどうなるかを浮き彫りにする。
同じく宮﨑監督の『千と千尋の神隠し』(2001年、英題:Spirited Away)も、身の回りのありふれた品々に至るまで森羅万象に精霊が宿るとする日本文化のアニミズム(精霊信仰)思想を反映している。八百万(やおろず)の神々が集う謎めいた湯屋を舞台に、内気で変化を怖がっていた10歳の少女・千尋が、異界で生き抜くすべを身に付け成長していく姿が描かれる。
重要な場面の1つがオクサレ様の登場シーンだ。湯屋にやって来たオクサレ様はヘドロの塊のように見えるが、千尋が洗うと、本来の清流の神の姿を現す。ヘドロは人間が垂れ流す廃棄物だったのだ。自然は汚染したり粗末にしたりすれば活力を失うが、手入れをし、敬えばよみがえるという環境保護のメッセージを裏打ちするシーンでもある。
何のために生きるのか
日本のテレビアニメの金字塔的作品『新世紀エヴァンゲリオン』(95~96年、英題:Neon Genesis EVANGELION)は、深い哲学思想、特にアイデンティティーと人間の存在理由という実存主義的問いを扱っている。
地球規模の大災害が起きた後の世界で、主人公の14歳の碇シンジは、巨大な汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」のパイロットになって、仲間と共に謎の敵「使徒」から人類を守るために戦うよう命じられる。
シンジたちが自らの役割に苦悩する姿を通して描かれるのは、孤立や自尊心、親密で有意義な関係を構築する難しさだ。仏教や神秘主義的なグノーシス派の思想も取り入れ、内なる知恵に焦点を当てることで、物質世界への過度な執着は苦しみを生むという考えをあぶり出す。
『「鬼滅の刃」無限列車編』の特筆すべき点は、鬼たちとの戦闘が象徴するように、登場人物の内なる葛藤に焦点を当てていることだ。鬼が表すのは人間の苦しみと執着──いずれも仏教思想が深く影響しているテーマだ。作品の軸となる鬼殺隊士の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は、確固たる無私と高潔を体現する。
「炎の呼吸」で鬼を倒す煉獄の戦闘スタイルは実に象徴的だ。日本文化では炎は破壊と再生を象徴する。京都で毎年10月22日に行われる鞍馬の火祭は、大きな松明を街じゅうに掲げて邪気を払い土地を清める神道の儀式だ。仏教でも僧侶たちが護摩木を神聖な炎にくべて無明(無知)と煩悩の消滅を象徴する儀式がある。
煉獄の「炎の呼吸」はこの二重性を象徴している。炎は世界から鬼を殲滅すると同時に、彼の揺るぎない精神も表している。
彼の精神的支柱といえるのは武士道だ。武士道は儒教、禅宗、神道に根差し、忠誠と自己犠牲と他者を守る義務を重んじる。「弱き人を助けることは強く生まれた人の責務」という母親の教えは、父母を敬い世のために尽くすという儒教の倫理観を反映し、彼の行動指針となっている。
武士道と禅宗の結び付きによる規律重視や無常観の受容は、煉獄の決意を一層揺るぎないものにし、神道の影響は神聖な義務を果たす擁護者という彼の役割を裏打ちする。
彼は死を前にしても動じず、「無常」という生命のはかなさに美を見いだす仏教の根本原理を受け入れる。彼の自己犠牲は真の強さが無私と道徳的誠実さにあることを意味している。
対照的に、煉獄と死闘を繰り広げる猗窩座(あかざ)は力と不死への執着を体現する。かつては人間だったが、力に執着し、無常を受け入れられなかったために、鬼と化した。
米プリンストン大学のジャクリーン・ストーン名誉教授(宗教学)らは苦しみの根源である生への執着が仏教の経典でどう論じられているかを研究してきた。死を認めようとしない猗窩座は、苦しみは執着と欲望から生じるという仏教の教えと一致している。
猗窩座の全身の入れ墨も象徴的だ。日本では昔から入れ墨が犯罪やヤクザや苦悩と関連付けられ、江戸時代には罪人の烙印として使われていた。今でも一部の銭湯やジムやスイミングプールでは入れ墨のある客の利用を断っている。現代アニメでは入れ墨をしたキャラクターは過去のトラブルや内面の苦悩を抱えているケースが多く、猗窩座の入れ墨は彼が苦しみと破滅から逃れられないことを強調する。
彼と煉獄の闘いは単なる善と悪の闘争にとどまらない。無私と利己主義、受容と執着など相反する世界観の衝突だ。人間の普遍的な苦悶が世界中で反響を呼ぶ。
『無限列車編』は無常や道徳的義務、生きる意味を探ることで、娯楽性と哲学性を併せ持つメディアという、アニメの伝統に寄与している。目的を持って誠実に生きるとはどういうことか、深く考えさせる作品だ。
Ronald S. Green, Professor and Chair of the Department of Philosophy and Religious Studies, Coastal Carolina University
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.