冤罪死刑を追ったドキュメンタリー映画『正義の行方』の続編を切望する理由
ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<小学生女児2人が殺害され、犯人とされた久間三千年の死刑が08年に執行された飯塚事件。冤罪の疑いが濃厚なこの事件のさまざまな関係者に取材した『正義の行方』はとんでもない力作だ>
今から24年前、女児1人を殺害したとして菅家利和の無期懲役が確定した。しかしそれから9年後、有罪の決め手となったDNAのMCT118鑑定に大きな不備があることが明らかになって、菅家の刑の執行は停止された。日本の冤罪事件の代名詞的存在として知られる足利事件だ。
同じMCT118鑑定で有罪が確定した事件はもう1つある。飯塚事件だ。女児2人を殺害したとして久間三千年(くまみちとし)は、2008年10月に死刑を執行されている。菅家の刑の執行が停止される前年だ。
でもこの時期、多くのメディアはMCT118鑑定の問題点を既に指摘していた。ところが処刑された。なぜこのタイミングなのか。しかも判決確定からわずか2年余り。極めて異例の早さだ。問題視される前に処刑したのではないか。誰だってそう思いたくなる。
世界は死刑廃止の潮流にあるが、日本は今も死刑制度を存置する国だ。冤罪だけではなく、否認する被疑者を長期勾留する「人質司法」や無罪推定原則の軽視、死刑制度のブラックボックス化など、日本の刑事司法が抱える問題点は数多い。
そして飯塚事件には、日本の刑事司法や捜査権力が内包している負の要素が、ほぼ全て凝縮されている。
『正義の行方』を最初に観たのはテレビだ。何げなく観始めて、クギ付けになった。観ながらずっと、自分はとんでもない作品を観ているとの意識が体の内奥で駆動し続けていた。
とんでもない作品と感じた理由は、そのテーマだけではない。作品のポテンシャルが異様に高いのだ。主軸は事件に関わった当事者たち。多くの元警察官、DNA鑑定が専門の法医学者、再審を目指す弁護士、そして地元の西日本新聞社の記者たちだ。
それぞれに立場がある。つまり帰属する組織を背負いながら、一人一人がインタビューに答える。その言葉の余韻に躊躇や苦渋や怒りがにじむ。揺れる。きしむ。何が正義なのか分からなくなる。
再編集された映画版を観終えて改めて思うのは、言葉を引き出す木寺一孝監督の力だ。その視点(つまりカメラ)は徹底して揺れない。冷徹なのだ。だからこそ多くの正義の揺れが等身大に現れる。