180分あれば... ずっしりと重い映画『怒り』は心理描写が物足りない

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<最近の邦画は質量が物足りない。要するに薄い。その点、吉田修一原作、李相日監督作の『怒り』はメガトンクラスの重さだ。それでも不満なのは──>
サブスク全盛の今、あらためて映画の定義を考える。映画館の暗闇でスクリーンに投射された映像作品という定義は、既に失効しているのだろうか。
実際に僕も、東京近郊ではあるが交通が不便なエリアに暮らしていることもあって、試写案内をもらっても会場に足を運ばず、オンラインかDVDで視聴することが多くなった。
少しばかり後ろめたい。家で独りモニターを見つめながら、自分はいま映画を観ていると言えるのだろうかと考える。ただしモニターのサイズは一昔前に比べれば、スクリーンほどではないにせよ、ずいぶんワイドになっている。視聴するときに部屋を暗くすれば、疑似的な映画空間にはなるかもしれない。
ただしそこに他者はいない。誰かの吐息や含み笑い、そして嗚咽(おえつ)。そうした要素も含めての映画ならば、やはりこれは映画ではない。
でもやっぱり、その見方は偏狭すぎるだろう。全てのものは変化する。テレビやラジオも一昔前に比べれば、使い方や在り方が全く変わっている。映画も同じだ。
『A』を発表した1998年のキネマ旬報の星取り表で、「これは映画なのか」と疑問を提起する批評家が何人かいた。その理由はビデオ撮りだから。でもその後、ビデオ撮りはあっという間に主流となった。今ではよほどのこだわりがなければ、フィルムで撮る人はほぼいない。
定義は大きく変わりながら、1つだけ絶対に変わらないことがある。2時間前後(一部例外はあるけれど)の尺と、それに見合うだけの質量だ。1クール10回程度のテレビドラマと比べれば(良し悪しではなく)、映画は密度が圧倒的に濃い。
素材をぎりぎりに削る。圧縮する。映画監督ならば誰だって、尺を詰めろとの指示に対して黒澤明が言った「切りたければフィルムを縦に切れ」に、強く共感するはずだ。
でも最近の邦画は質量が物足りない。要するに薄いのだ。だから楽に観られる。映画館ではなく自宅のソファで観ることが主流になりつつあることの弊害なのか。
映画館で観るにせよ、ソファに寝転がって観るにせよ、『怒り』の質量はずっしりと重い。メガトンクラスの重さだ。うかつに触れない。手の上にのせたら手のひらに穴が開く。