三谷幸喜の初映画『ラヂオの時間』は完璧な群像劇だった 隠された毒が深みを生む
ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<微量な毒やメッセージがあってこそ有効に機能する場合があり、この法則は舞台も映画も変わらない。三谷の監督デビュー作は見事にそれを実現していた>
毒にも薬にもならない、というフレーズがある。どちらかといえば否定的。良い意味で使われることはあまりない。
ただし、実際の毒と薬のラインは曖昧だ。多くの薬がそもそもは微量の毒であるとの見方もできる。それに何よりも、世の中にあるものは毒と薬にだけ分けられるわけではない。もっといろんな要素がある。
1990年前後の時期、東京サンシャインボーイズの舞台を初めて観た。劇団員だった阿南健治とは旧知で、どちらかといえば義理で足を運んだのだが、その面白さと完成度の高さに圧倒されて、それからは公演のたびに足を運んだ。この時期は主宰で演出の三谷幸喜も、時おり役者として舞台に登場していた。
この原稿を書くためにネットで検索したら、「それまでの日本にはほとんどなかった『ウェルメイド・プレイ』(毒は少ないが、洗練された喜劇)を上演することが特徴で」との記述を見つけた。なるほど。確かにあからさまな毒やメッセージはない。でも微量で隠されているからこそ、有効に機能する場合がある。
この法則は映画も同様だ。メッセージ性の強い社会派だけが映画ではない。ホラーやコメディー、サスペンスやロマンスだってもちろん映画だ。ただしやっぱり毒は必要だ。チープに表現すれば、隠し味。観る側への触媒。暗喩。メタファーと表現する人もいる。これが全く含まれていなければ、ジャンルは何であれ、痩せて扁平な作品になってしまう。
東京サンシャインボーイズの休眠(公式には充電)宣言を経て1997年、三谷は『ラヂオの時間』で映画監督としてデビューする。ロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』を彷彿させる長回しで始まるこの作品の時間軸は、深夜のラジオドラマのリハーサルから放送終了まで。つまりせいぜい数時間。場所もほぼ局内だ(トラック運転手は不要だったと思う)。平凡な男女のささやかな恋をテーマにした脚本が、生放送という設定のためにドタバタの展開を余儀なくされ、宇宙空間まで広がった国際ロマンスへと変貌する。主人公のパチンコ店店員である律子は弁護士のメアリー・ジェーンに変わり、熱海の設定はいつの間にかシカゴだ。
舞台と同様、伏線の回収が見事だ。そして毒もある。この時期に三谷自身が経験したテレビ局のドラマ制作現場への風刺と当てこすり。軽薄な局員と業界人。でも現場で歯を食い縛る人たちもいる。みな必死に生きている。群像劇としても完璧だ。