コラム

アラブ世界に黒人はいるか、アラブ人は「何色」か、イスラーム教徒は差別しないのか

2020年07月22日(水)18時05分

そうした評判を跳ね返すかのように、サァドは2006年1月、ジャービル首長の没後、首長位に就いたが、すでにそのときには彼は重篤な病に冒されており、わずか9日で国民議会(クウェート国会)によって退位させられてしまったのである。

同様に、サウジアラビアのバンダル・ビン・スルターン王子(元駐米大使、元総合諜報庁長官)も、若いころより有能との評判があったものの、誰も彼が将来の国王候補だとは考えなかった。彼がエチオピア人奴隷の母親から生まれたためであった。

ちなみにサウジアラビアではこれまで、母親が奴隷や召使のような存在だった王子が王位についたことはなかったが、国王「候補」とみなされることはあった。ただ、それも、母親がアルメニア人やアラブ人の場合にかぎられる。これらは、もちろん公然と語られることではなかった。肌の色や出自の問題を公式の場でいうべきではないという程度の理性は、クウェートやサウジアラビアでもきちんと働いていたといえるだろう。

イスラーム史学の泰斗、バーナード・ルイスは、イスラーム世界における肌の色と差別の問題をあつかった『Race and Colors in Islam』や『Race and Slavery in the Middle East』という本のなかでイスラームにおける人種差別の問題を詳細に分析している(ちなみに彼自身、熱烈なイスラエル支持者として知られている)。そのなかでルイスは、イスラーム世界において肌の色による差別が存在していたことを明らかにしているが、それがかつての米国や南アフリカのような制度的な差別とは異なるとも述べている。

また、彼は、イスラーム世界に肌の色による差別がないというのも偏見であるとしながら、その偏見を作り出したのも、実は西洋人であったと指摘している。アラブ世界における肌の色による差別が制度的なものではないとすれば、それが顕在化することが少ないのもうなずける。だが、そうした差別が現に存在していることまで否定することできないはずだ。

エジプトのヌビア人等を別にすれば、黒い肌をもつアラブ人たちがみずからを民族的集団として自覚したり、他者から集合的に意識されたりすることは稀であろう。他方、単純労働者や肉体労働者、家内労働者としてアフリカ等からアラビア半島に入ってくる肌の黒い人たちのなかには事実上の奴隷のようなあつかいを受けるものも少なくない。

「黒人の命は大切」運動が注目を集めるなか、先祖が奴隷であった可能性もある黒い「アラブ人」たちは何か新たな動きを示すのだろうか。

【話題の記事】
日本人が知らない、アメリカ黒人社会がいま望んでいること
死と隣り合わせの「暴走ドリフト」がサウジで大流行
コロナ禍なのにではなく、コロナ禍だからBlack Lives Matter運動は広がった

20200728issue_cover150.jpg
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2020年7月28日号(7月21日発売)は「コロナで変わる日本的経営」特集。永遠のテーマ「生産性の低さ」の原因は何か? 危機下で露呈した日本企業の成長を妨げる7大問題とは? 克服すべき課題と、その先にある復活への道筋を探る。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官解任し国連大使に指

ワールド

米との鉱物協定「真に対等」、ウクライナ早期批准=ゼ

ワールド

インド外相「カシミール襲撃犯に裁きを」、米国務長官

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官を国連大使に指名
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
メールアドレス

ご登録は会員規約に同意するものと見なします。

人気ランキング
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story