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「中の人」の視点で終わった『東京2020オリンピック SIDE:B』
しかしこうした視線はステレオタイプであるがゆえに、『SIDE:A』のような繊細な感情描写を欠いている。唐突に市川崑『東京オリンピック』のオマージュのような選手の肉体美を誇示するカットが挿入されるなど、その演出には迷走がみられる。
河瀨直美によれば開会式のダンスと子供の笑顔で乗り越えられたはずの日本の分断だが、オリンピック反対派については、映画の最後まで取り残され続けたままだった。それは最後までオリンピックに対する異物であり、日本の統合の邪魔をする得体のしれないエイリアンだった。
私にはこれが河瀨直美の「政治的なもの」の見方の限界だと感じた。賛成派も反対派もいる。分断を乗り越えなければならない。しかしその乗り越えは弁証法的に行われるのではなく、見たくないものを排除することによって行われる。この監督は『SIDE:A』のように、世の中に横たわる政治的なものを繊細な視線で発見し、ありのままに表現してみせる技術には確かに長けている。しかし政治的なものそのものについてはナイーブな理解に止まっており、それを芸術の中に落とし込むことができていない。
そもそも「社会の分断」とは、コロナでもBLMでも気候変動でも中絶禁止でもブレクジットでも、それを言っておけばなんとなく何かを表現した気になれる便利な言葉だ。しかしそれ自体はまったく解像度が低い言葉なので、その「分断」とやらをどうすれば乗り越えられるかに関しては、それぞれのイシューを丁寧に分析するしかない。しかし河瀨直美はこの映画でその作業を行うことを放棄している。そのためオリンピック組織委員会の公式スローガンを表層的に反復するしかなくなっている。とはいえ少なくともそうしていれば、美しい画はとれる。
にもかかわらずオリンピックの反対デモは、オリンピックのスローガンによっては包摂されず、河瀨直美の美学にも反する現象だ。デモ隊は、社会の中での「自分の持ち分」を守ろうとはせず、大音量をがなり立てながら、不相応にも身なりの良いスマートなエスタブリッシュメントたちに食ってかかる。
「政治的なもの」理解の表層性
トーマス・バッハがデモ隊に対話を試みるが、デモ隊はコールを繰り返すのみで全く対話にならないというシーンがある。このシーンはバッハの「寛容」とデモ隊の「異常さ」を表現している。だが、権力を持つエスタブリッシュメントがカメラの前で反対派と対話をしようとすること自体、エスタブリッシュとしての政治戦略の一部であることは明白だ。デモ隊はそれを理解しているから拒絶するのだ。河瀨直美は、その程度の批判的視線を向けることすらできない。「せっかくバッハさんが対話を試みているのに拒絶するのは理解できない」というレベルでしか政治的なものを捉えることができていないのだ。
『SIDE:B』は「復興五輪」「未来の世代のためのレガシー」「新型コロナウイルスに打ち勝った証」といった、当時から批判が集まっていたスローガンを敢えて反復しているという点では、、優秀な「記録映画」なのかもしれない。一方で、(オリンピックの開催自体に賛成か反対かに拘わらず)、そのようなスローガンについて当時から多少なりとも疑問を持っていた者に対しては、この映画は何の解答も出すことは出来ていないのだ。
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