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DaiGo炎上問題、「問題提起」だろうと「個人の感想」だろうと許されない意見はある
この点で、DaiGoに対して人権の社会的効用(たとえば弱者を救済することによって治安維持に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要、など)を理由にDaiGoに反論している人も、筋はよろしくない。それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているからだ。ちなみにひろゆきもDaiGo発言を批判したが、その根拠は普遍的な人権ではなく社会的効用なのであった。しかし生存権は社会的効用とは無関係に存在するのであり、たとえ「問題提起」だったとしても否定されてはならない。これが人権というものについて、妥協できない大前提なのだ。
譲れない価値を前提にしない議論は危険
現代日本社会は、ある譲れない価値に基づいて何かを評価することを極端に嫌う。若い世代は特にそうだといわれている。全ての価値が相対化されているのだ。たとえ社会的弱者の生存権を否定するような発言でも、「ひとつの意見」として受け入れなければならないという間違った美徳がある。議論の機会はあらゆる意見に開かれていなければならないというのだ。しかし前述したように、世の中には議論してはいけない意見もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけない。生活保護や「ホームレス」問題に関心があるなら、経験豊富な支援団体にアクセスすればよい。そうすれば、より「建設的」な議論が可能となるだろう。
一方、特定の価値を前提にした議論を嫌う人たちにとっては、DaiGo的な語り口は魅力的なものに映る。価値なき世界において力を振るうのは経済力や発言力といった直接的なパワーだ。今回の炎上事件でDaiGoが経済力でマウントを取ろうとしたこと(自分は高額納税者なのだから批判者よりも生活困窮者支援を行なっているという趣旨の発言)が典型的だろう。これはまた、勝ち負けこそが全てのディベート的手法でもある。
DaiGoもひろゆきも議論の内容ではなく、議論の技術だけを語る。喧嘩戦略の巧みさを根拠に、DaiGoは2019年、「NHKから国民を守る党」の立花孝志を「第一級の政治家」と評価した(後に袂を分かつが)。さらに彼らは、何によって成功するかではなく、成功する技術を語る。他人の意見を聞くかどうかは、意見の内容に同意できるかではなく、自分の利益になるかどうかで判断する。DaiGoはそれに加えて、「メンタリスト」という立場から、俗流心理学を用いる。問題が何であれ、批判してくる人の「理由」ではなく、批判してくる人の「心理」を語るのだ。
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