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池江選手に五輪辞退をお願いするのは酷くない
東京五輪水泳会場の披露式典に参加した池江選手(2020年10月24日、東京都江東区) Issei Kato-REUTERS
<アスリートと一般市民の利害は今や根本的に対立している。そうさせたのは、コロナ無策のまま五輪を強行しようとする政権の姿勢だ>
5月7日、オリンピック水泳日本代表の池江璃花子選手がTwitterを更新し、選手選考会以後、オリンピック辞退や反対の表明を求めるコメントがSNSなどに寄せられ、中には心ない内容のものもあったとして、「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません」「この暗い世の中をいち早く変えたい、そんな気持ちは皆さんと同じように強く持っています。ですが、それを選手個人に当てるのはとても苦しいです」「頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います」と綴った。
このツイートは直ちに各社のニュース記事になり、池江選手には同情の声が寄せられた。「頑張っている選手に辞退を求めるなんて酷い」というわけだ。確かに選手個人に対する誹謗中傷は許されないだろう。しかし、コロナ禍での開催が批判されているオリンピックについて、社会的影響力がある選手に辞退をお願いする人が出てくるのは、それほど違和感はない。そのような手段を自分が用いるかはともかくとして、世間が躍起になって封じなければならないほど悪質なコメントとはいえないだろう。書き方にもよるとはいえ、言論の自由の範疇なのではないか。
厄介なのは、選手本人の気持ち、選手に対する市民の同情とは別個の問題として、選手と市民のあいだには構造的な敵対関係が存在することだ。選手は傲慢だとか、市民は選手を憎悪するべきだとか、そういうことが言いたいのではない。選手と市民がお互いをどのように考えていようが、日本政府とIOCの五輪開催方針によって否応なしに生じてしまっている、実存的敵対関係があるということだ。
選手と市民の実存的敵対関係
オリンピックはスポーツ選手にとって一世一代のイベントだ。いわば選手たちはメダルを獲得するために全人生を賭しているのであって、オリンピックが開催されるか否かは文字通りの死活問題となる。そうした意味では、コロナ禍において選手はオリンピックに反対するのが当然だと批判することはできない。
一方、現在の日本で、コロナ禍が拡大しているのも事実だ。二回目の緊急事態宣言解除後にいちはやく感染者が増えた大阪ではすでに医療崩壊が起きており、死亡者数の増加がみられた。当初、京阪神や首都圏で感染拡大が起こっていた第4波は、今は北海道や福岡県など地方に広がりをみせている。政府のワクチン対応は遅れている。オリンピック開催までに高齢者3600万人の接種を終えるという目標も、1日あたり100万人の接種を前提としなければならず、現在のペースでは非現実的となっている。
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