コラム

日本食を芸術へと高める「ワサビ」の里 山と海をつなぐ安曇野を歩く

2021年01月22日(金)13時02分

◆本場のど真ん中でワサビを食す

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広大な大王わさび農場のワサビ田。これでも全体のごく一部だ

今回のスタート地点のJR大糸線・穂高駅から約2.5キロ東に位置する「大王わさび農場」は、日本最大のワサビ園である。農場面積約15ヘクタール、年間収穫量は約150トン。「日本一の安曇野のワサビ」は、大正時代からの歴史を持つこの大農場に負うところが大きい。園内は一般開放されており、わさび田を見下ろす土手に沿って敷地内をぐるりと散策できる。年間約120万人が訪れる一大観光スポットになっているのだが、入場無料である。わさび丼などが食べられるレストランや売店で観光収益を上げているが、観光客の数に対して、比較的質素な施設だ。

和食ブームの中、これだけ「引き」のある場所なのだから、入場料を取ってもっと大規模な食堂や売店を作り、ガンガン儲けても良いのでは?というは下賤な考えだろうか。訪れた時は、コロナ禍のため外国人観光客は目にしなかったが、日本人だけでも相当な数の観光客がいた。ポストコロナの時代になっても、「食」は日本観光の目玉でありつづけるはずである。その中でも、冒頭に書いたようにワサビは特別な存在だ。ヨーロッパに行った際、ちょっとハイセンスなデザイナーズホテルやレストランの創作料理メニューの多くに、Wasabiが使われていたのを思い出す。ワサビ園は、世界的な「食の聖地」になるポテンシャルを秘めている。

とまあ、そんなおせっかいなことを考えつつ、取りも直さず安曇野のワサビを食べたいと思うのが人情だ。実は、僕は食へのこだわりが薄い方(おいしいものは好きだけど、多くの現代日本人のようにいつもいつも味にうるさいのは疲れる)で、食事のために並ぶことはめったにないのだけど、今回ばかりは園内散策前に小一時間ほど並ばせてもらった。頼んだのは、一番ボリュームがありそうな「本わさび丼ビーフステーキセット(1,540円)」。生のわさびが一本丸々ついてきて、食べる直前に自分でおろして(これが、香気と辛味が抜けない一番おいしい食べ方)ステーキと丼に載せる。本わさび丼は、ごはんの上にかつお節が敷き詰められ、その上にさらにネギトロが乗った、絶対においしいやつである。ワサビは肉料理にも魚料理にも合う。これ以上新鮮な本物のわさびはないのだから、私の駄文であえて味を説明するまでもないだろう。

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◆独特の「平地式」で栽培される「沢ワサビ」

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「平地式」で栽培される安曇野のワサビ

ところで、安曇野と並ぶワサビの産地と言えば、静岡県(安倍川上流地方・伊豆天城山地方)だが、わさび田の光景は、両者で大きく異なる。僕は、若い頃に読んだグルメ漫画などの影響で、わさび田と言えば急斜面に作られた石積みの棚田のようなイメージを持っていたのだが、それは静岡で主流の「畳石式」という栽培法だ。

ここ大王わさび農場のような開けた場所で展開するのは「平地式」と言い、伏流水が豊富な大規模な扇状地でしかできない。<大きな川の近くの平坦地を数メートル掘り下げて水が湧き出る所に砂で畝を作り、畝の両側にワサビを植え付ける方法>(大王わさび農場HPより)である。平地式を可能にするには「年間を通じて水温が高くならない」という条件も加わる。つまり、ほぼ安曇野でしかできない栽培法なのだ。

平地式のメリットは、栽培面積を広く取りやすく、効率的に整地から収穫まで進められること。一方、わさびが嫌う直射日光を受けやすいため、夏場は寒冷紗(黒い紗幕)で覆う必要がある。この寒冷紗の黒い筋が緑のワサビ田に重なる光景が、唯一無二の安曇野の光景と言えるだろう。

ちなみに、安曇野や静岡で栽培されている流水で育つワサビは「沢ワサビ」、流水を用いずに冷涼多湿な畑で育てたワサビを「畑わさび」と言う。一般的に沢わさびの方が品質が高く、限られた環境でしか栽培できないため、希少価値も高い。沢ワサビは高級寿司店などで、畑ワサビは加工品に使われることが多い。また、沢ワサビと畑ワサビの品種は同じだが、粉ワサビの原料に使われているのは、ホースラディッシュ(西洋ワサビ)という違う品種。ヨーロッパではローストビーフの薬味などとして一般的で、現在は北海道やここ長野県でも生産されている。

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最高級品質の「沢ワサビ」

◆和食は日本の国土の象徴

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本ワサビ用の鮫皮おろし

ワサビをおろすには、鮫皮が最適だという。ワサビの辛味はすりおろして空気に触れることで発生する。硬さとなめらかさが共存した鮫皮で「の」の字におろすと、きめ細やかな香りのいいクリーミーな仕上がりになるという。海で捕れたサメが、山で採れたワサビをおいしくする。食材に添えられる前に、既に海と山のコラボレーションがあるのが、なんとも山がちな島国である日本らしい。和食とは、海と山がおりなす日本の国土そのものを味わう料理なのかもしれない。

大王わさび農場を流れる水は、北に向かって近くを流れる万水川と合流し、やがて犀川、千曲川、信濃川となって270km先の日本海に流れ出る。山の水が山の幸を育み、海の幸を彩って豊かな食文化となる。安曇野のワサビ田と日本海のつながりは、そんな和食の列島横断的な世界観を想起させる。

◆旅は終盤へ

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安曇野の水の流れに沿って日本海を目指す

日本海を目指すこの旅は、北アルプスの湧水の流れに沿ってラストスパートに入っていく。大王わさび農場を後にして、新潟県境に向かって大町市方面を目指した。夕暮れの大豆畑の先に、北アルプスの山脈がそびえ立つ。この雪山の壁に沿って谷筋を進んでいくことになるこの先は、いくらか土地勘のあった今までと違い、僕にとっては車でも通過したこのない未知のゾーンだ。知らない土地では、「日常のディテールに思いを馳せる」という、この旅のスタイルも変わっていくのだろうか。

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今回歩いたコース:YAMAP活動日記

今回の行程:穂高駅 → 安曇追分駅(https://yamap.com/activities/8747315)※リンク先に沿道で撮影した全写真・詳細地図あり
・歩行距離=11km
・歩行時間=7時間14分
・上り/下り=42m/38m

プロフィール

内村コースケ

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。外交官だった父の転勤で少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒業後、中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験。かねてから希望していたカメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「書けて撮れる」フォトジャーナリストとして、海外ニュース、帰国子女教育、地方移住、ペット・動物愛護問題などをテーマに執筆・撮影活動をしている。日本写真家協会(JPS)会員

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