日本食を芸術へと高める「ワサビ」の里 山と海をつなぐ安曇野を歩く
撮影:内村コースケ
第23回 穂高駅 → 安曇追分駅
<令和の新時代を迎えた今、名実共に「戦後」が終わり、2020年代は新しい世代が新しい日本を築いていくことになるだろう。その新時代の幕開けを、飾らない日常を歩きながら体感したい。そう思って、東京の晴海埠頭から、新潟県糸魚川市の日本海を目指して歩き始めた。>
◆40数年前、カナダ人の少年はおにぎりを「Yuck!」と吐き出した
僕がカナダとイギリスで子供時代を過ごした1970・80年代は、和食はまだまだ世界ではマイナーな存在だった。オタワの小学校の同級生がうちに遊びに来た時、留守番の僕のために母が食卓に用意していたおにぎりを食べて、「Yuck!(オエッ)」と吐き出したのが忘れられない。今では考えられないかもしれないが、その時和食を初めて口にした金髪巻毛・碧眼の少年にとって、海苔は生臭く、粘り気のある米は海苔ならぬ糊(Glue)そのもので、そこに染みたおかかの醤油は生臭い塩水に感じられたのだろう。
そんなことを子供時代にちょくちょく経験していたので、2013年12月に和食が世界遺産登録されたことには隔世の感を禁じ得ない。以後、没落する一方の日本経済を首の皮一枚でつなぎとめていたインバウンドを支えたのは、豊かな食文化であった。近年、「日本食を食べること」が、訪日外国人観光客の目的のトップを占めている。その中でも、国籍を問わず常に人気No.1は、「寿司」である。
おにぎりを吐き出した少年と違って、カレン・カーペンターに似ていた(と、当時の僕は思っていた)カナダ時代のガールフレンドは、うちでディナーを共にすれば、一生懸命に箸を使って健気に和食を食べてくれた。でも、寿司や刺し身を出すことなど、親も考えもしなかったようで、彼女が食べた魚料理はせいぜいカレイの煮付けなど、火がしっかり通っていて、味が濃い、西洋人に馴染みやすい料理だった。
考えてみれば、刺し身は不思議な食べ物である。新鮮で高級なネタを熟練の職人が切り分けたとしても、そのままでは我々日本人だってとても食べられたものじゃあない。それに醤油をつけるとあら不思議。世界中の人の味覚の未体験ゾーンを刺激するミラクルな料理に生まれ変わる。それをさらに高級料理の高みに持っていくのが、酢飯との組み合わせだ。そして、世界遺産レベルの芸術的な食文化へと、もうワンランク押し上げるのがワサビである。
今回は、日本の観光立国をネタとシャリの間で支えるワサビの産地、安曇野を歩く。
◆北アルプスの伏流水が湧き出る土地
北アルプスの麓にある安曇野市の旧穂高町地区は、いくつもの扇状地が重なる複合扇状地という全国的にも珍しい地形を織りなす。扇状地とは、山から川に流されてきた砂礫が堆積した地形で、非常に水が浸透しやすい。ワサビ田が集まるのは、扇状地の扇の端(広がり)のエリアで、地下に浸透した伏流水が再び湧き上がっていくつもの川筋を形成している。
北アルプスの冷たい雪解け水は、砂礫層をくぐり抜けるうちに濾過されて清水となる。その清水は地下を流れるため外気温に左右されることなく、一年中13度前後という適温に保たれる。前回の旅ではこの湧き水が集まる湧水群の流れで熱中症になりかけた体を冷やしたが、冬は冬で冷たすぎず、通年でワサビ栽培を可能にしている。このような最適な環境により、安曇野は日本一のワサビの収穫量を誇っているのだ。
農作物の味は、土地の水の味に左右されるというが、つくづくそう思う。僕は10年前に東京から長野県の蓼科高原に移住し、地場産の新鮮な野菜を日々食べているが、香気の強い独特な「蓼科の味」はすぐに分かる。日々ちょっとした山歩きや渓流釣りをしていると、この土地の土の臭いや沢の臭い、つまり水の臭いが嗅ぎ分けられるようになる。嗅覚と味覚は密接に結びついているというが、蓼科の野菜の味は山で感じる水の臭いの味である。安曇野の湧き水は、磨き抜かれた清らかな水。その味が凝縮されたワサビはどれほど鮮烈な香りを放つのだろう。
市街地にある穂高駅から、日本一のわさび田が広がる「大王わさび農場」を目指す。途中、旧街道筋に第一ワサビ田発見。そこから2キロばかり進むと湧き水をたたえた川が現れた。周囲には幾筋もの水路が流れ、ニジマスの養魚場や釣り堀もあった。ワサビ栽培に適した水は、渓流魚の養殖にも適している。
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