極右の相次ぐ選挙勝利、マスコミが「ポピュリズム」報道の詭弁で助長する愚行
Normalizing Extremes
オランダ次期首相への就任を目指すウィルダース PETER BOERーBLOOMBERG/GETTY IMAGES
<アルゼンチンやオランダで極右が相次ぎ勝利、脅威を喧伝しながらポピュリストの形容により極右を「主流」にしてしまう報道関係者・研究者の罪をあばく>
新たな「ポピュリズムの衝撃」だった。
11月19日に行われたアルゼンチン大統領選決選投票を制した右派のハビエル・ミレイと、11月22日のオランダ総選挙で第1党になった極右政党・自由党を率いるヘールト・ウィルダース。2人の勝利は、弱体化する自由民主主義に襲いかかる「ポピュリズムの波」の象徴だ。
一方、リアリティー番組に出演するイギリス独立党(UKIP)元党首ナイジェル・ファラージュのように、親しみやすい人物として世間に浸透する極右指導者もいる。
この構図には、極右への反応の矛盾がむき出しになっているが、問題はもっと根深い。
娯楽番組などで人間性を強調すれば、極右は「普通」になる。
極右とその脅威を懸念する者にとって、これは自明の理のはずだ。
だが、極右の脅威を大げさに伝えるのも同じくらい有害だ。
反動政治の復活は想定内であり、かなり前から始まっている。それなのに極右が勝利するたび、予想外の新たな現象という分析が出てくる。
「ポピュリズム」も同様だ。
専門的な研究はどれも、彼らの本質はポピュリストではなく、極右にほかならないと指摘する。だがメディアも学者も、ポピュリストと不用意に形容しがちだ。
極右や人種差別主義者の代わりにポピュリストと呼ぶのは、極右の正当化に貢献する行為だ。
この「人民」を語源とする単語は民主的な支持を想起させ、彼らのエリート主義的本質を消し去ってしまう。
主流メディアの責任放棄
極右の主流化や正常化というプロセスは、主流そのものと強く結び付いている。
主流に取り込まれることなく、何かが主流化することはあり得ない。
反対姿勢をアピールして自身の責任を否定しながら主張を取り上げ、過剰報道し、正当化してしまう。それが極右主流化のプロセスだ。
主流派メディアは世論形成に重要な役割を持つが、その多くは役割に伴う責任を放棄するか、無視している。編集方針による選択の結果を、無作為の事象と言わんばかりだ。
いい例が2018年から英紙ガーディアンが連載した「新ポピュリズム」特集だ。その出発点は「なぜ突然、ポピュリズムが大ブームになったのか」という問いだった。
ポピュリズムを取り上げた同紙の記事は、1998年には約300件だったが、16年は2000件に増えたという。だがそれは、単純に同誌がポピュリズムという単語を多用するようになったからではないのか?
極右台頭は「サイレント・マジョリティー」や「白人労働層」のせいにされている。
極右は規範や主流の枠外のアウトサイダーと捉えられがちだが、そうした見方は社会の中核に埋め込まれた構造的格差や抑圧を見落としている。
研究者もそうだ。
この5年間に発表された論文2500件以上のタイトルと要旨を分析したところ、選挙や移民を論点にして極右をごまかし、例外扱いする傾向が強かった。
主流化という問題では、主流自体の大きな役割を考慮すべきだ。
世論形成への特権的アクセスを持つメディアや学術研究者は、主流という良識と正義の砦(とりで)の中にいるのではない。彼らが立っているのは、権力が極めて不均衡な形で分配された闘技場だ。
極右にも「一理ある」が、極右には反対──そんな詭弁は許されない。
Aurelien Mondon, Senior Lecturer in Politics, University of Bath
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
2024年12月10日号(12月3日発売)は「サステナブルな未来へ 11の地域の挑戦」特集。地域から地球を救う11のチャレンジとJO1のメンバーが語る「環境のためにできること」
※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら