史実はNHK大河ドラマとまったく違う ── 源頼朝が弟・義経の死に際し実際にやったこと
歌川国芳による源頼朝像「知勇六佳仙 右大将源頼朝卿」 CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
源頼朝はなぜ弟・義経と決裂したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「壇ノ浦合戦後の度重なる失態が原因だろう。頼朝は『弟は災いの種となる』と考えたのではないか」という――。
頼朝が壇ノ浦の戦いで求めていたこと
源義経は、壇ノ浦合戦において平家を滅亡させました。義経は平家討伐の功労者といっても良いでしょう。しかし、彼は最終的には異母兄・源頼朝に疎まれ、死の淵に追い込まれることになります。それはなぜなのでしょうか?
1185年3月24日(旧暦)、義経軍は長門国赤間関の壇ノ浦において、平家を滅亡させます。平家によって京都から連行された安徳天皇はこの時、入水し、海中に没するのです。同じく京都から持ち去られていた三種の神器の一つである宝剣も水中に沈んでしまいます。
頼朝は西国に派遣していた異母弟の源範頼(のりより)に対し、「安徳帝と三種の神器を確保するため、よく考えて戦をしなければいけない」と書状で諭しています(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。ところがそのもくろみを、達することはできませんでした。
義経の度重なる失態
義経からの平家滅亡の知らせを鎌倉の頼朝が聞いたのが、4月11日のこと。翌日、頼朝は義経に捕虜を連れて上洛するよう命令を下します。
4月22日、頼朝のもとに侍所次官の梶原景時から書状が届きます。九州にいた景時は、義経の行動を非難する弾劾状とも言うべきものを主君に送ったのでした。
そこには、合戦の勝利を自分一人の手柄のように感じて奢(おご)る義経の様子が描かれていました。さらには「義経は、自分勝手に振る舞い、頼朝様の命令を守りません」(『吾妻鏡』)とも。景時からの手紙を見て、頼朝は眉をひそめたことでしょう。
義経は平宗盛や平時忠といった捕虜を連れて、西国から京都に入ります(4月26日)。上洛した義経は、朝廷より、院(後白河法皇)の親衛隊長とも言うべき、院御厩司(院の軍馬などを管理する厩(うまや)の長官)に任命されます。これには頼朝の推薦があったといわれています(平家物語で最も古い成立とされる『延慶本 平家物語』)。