反プーチン派に残ったのは絶望と恐怖と無力感...ロシア国民の本音とは【現地報告】
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モスクワ市内で「プーチンにニュルンベルク(裁判)を。戦争反対」とプラカードを掲げる人(2月24日) Newsweek Japan
<報道統制でウクライナ侵攻を知らない国民。エリート層は国外逃避し、庶民は経済苦に。彼らは「プーチンの戦争」をどこまで支える?>
数は少なかった。若者に、中年の人も交じっていた。みんな恐る恐るではあるが、それでも戦争反対の意思を示そうと集まってきた。すると、たちまち警官隊が彼らを取り囲んだ。「戦争反対」と叫んだり、そんなスローガンを掲げた横断幕を広げるそぶりを見せたら、問答無用で検挙するつもりだった。
3月20日の日曜日、ロシアの飛び地カリーニングラードの、その名も「自由広場」でのことだ。独立系の写真エージェンシーを経営するアンナ(42)は、その光景をロシア正教の救世主ハリストス大聖堂の正面階段に立って見つめていた。ウクライナでは何百万もの市民が家やアパートを焼かれて逃げ惑っている。そして、ここロシアではそんな蛮行に抗議するだけで警察に引っ立てられる。「つくづく気がめいる」。アンナは本誌にそう語った。
この国の歴史は、国民の血で塗られている。ロシア人なら誰でも、1930年代のスターリンによる「大粛清」で無数の市民が秘密警察に処刑されたことを知っている。当時は隣人が隣人について告げ口し、すると秘密警察の黒い車(カラスと呼ばれていた)がやって来て、その人を強制収容所へ送り込んだものだ。
ウラジーミル・プーチンが君臨する今のロシアでも、戦争反対の意思表示は命取りとなる。当局は反対意見や自由な報道を封じる厳しい法律を制定した。
ウクライナ侵攻を「特別軍事作戦」と呼ばずに「戦争」と言っただけで、禁錮15年の刑を食らいかねない。この日の2週間前の日曜である3月6日だけでも、全国69都市で5000人以上の反戦派市民が身柄を拘束された。
2月24日にウクライナ侵攻が始まった時点では、ロシア国内の状況がここまで厳しくなるとは誰も予想していなかった。しかし侵攻翌日に欧州評議会がロシアの投票権を一時停止すると、プーチンの盟友で前大統領のドミトリー・メドベージェフは言ってのけた。そろそろ国内で、死刑を復活させる時期かもしれないと。
ウクライナ侵攻直後からパニックが発生
アンナによると、市民の間ではウクライナ侵攻直後からパニックが起きていた。「預金を全額引き出そうとする人がATMに殺到し、銀行では現金が足りなくなった」
旧ソ連の「鉄のカーテン」は、ベルリンの壁もろとも1989年に崩れ落ちた。それでロシアにも自由と経済改革の新風が吹き込み、国民には移動の自由も認められた。
だが今でも、多くの国民は一度も外国に旅したことがない。平均月収は、以前から米ドル換算で500ドルに満たなかった。パスポートを持っている人はせいぜい3割程度で、ほとんどの人には外国旅行で見聞を広める経済的余裕がない。