戦争はいずれ終わるが「道徳的排除」は世界から消えない
ウクライナ軍が5週間ぶりに奪還したキーウ近郊のブチャでは、多くの民間人が遺体となって発見された(4月6日) Alkis Konstantinidis-REUTERS
<戦争の醜い面は、集団アイデンティティーによる分断と憎悪だ。「モラルのダブルスタンダード」を含むあらゆる二重規範はロシアだけの問題ではない>
戦争が終わり、握手を交わすリーダーたち
帰らぬ人となった息子をただただ待ち続ける婆さん
あの女性も愛しい主人を今も待ち続ける
子供たちも勇敢な父さんの帰りが待ち遠しい
誰が国を売ったのか知る由もない
けれど、その代償を払わされた者は確かにいた(見た)!
これはアラブ現代史においてパレスチナ人で最も偉大な詩人の一人、マフムード・ダルウィーシュが残した言葉である。ロシアのウクライナ侵攻の影響か、アラブ諸国のSNS上で再び注目され話題を呼んでいる。
戦争はいずれ終わりが来る。しかし戦争が終わった後も、残された破壊の爪痕は計り知れないものだ。戦争は人々の暮らしの全てを変えてしまい、命と国を守ることに必死となる。これこそ、戦争の本質である。
『戦争論』とプーチン
テレビ画面越しに逃げ惑うウクライナ市民を見て、戦争の理不尽さを改めて突き付けられる。戦争が勃発すると、それはロシアとウクライナの現在の戦争であれ、過去20年間にアラブ地域で起きた戦争であれ、多くの疑問が私たちの脳裏をよぎる。戦争の性質とは何か、また、そもそもなぜ戦争が起きるのか? なぜ人々が平和に暮らせないのか? なぜそこまで人間は理不尽な暴力ができるのか? このように説明の付かない疑問や難問が次々と浮かんでくる。不当な暴力を全て説明できるものはありますか?
言語を問わず多くの歴史本を読んでみると、人間が平和に暮らすことは不可能だという率直な印象を抱くことが多い。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とプロイセンの軍人だったクラウゼヴィッツは『戦争論』で力説する。これこそ、プーチン大統領の手法を体現している言葉だろう。プーチン政権になってから、ロシアの戦争経験が増えていったのも事実である。今回のウクライナ侵攻は、1999年にウラジーミル・プーチンが首相に就任して以来、6回目の直接軍事介入だ。これらにはコソボ、ウクライナ(クリミア)、グルジア、チェチェンが含まれ、今も続くシリアへの軍事介入は中東で初めてのものである。
歴史上の戦争の原因または動機を考えると、そのほとんどは権力拡大のための新しい土地の併合か植民地化、あるいは国家の権力、名声、富を脅す行為への屈辱を晴らし復讐したいという願望だ(最も近い例が、現在のウクライナの戦争だ)。しかし、戦争の一番醜い面は、異常な集団アイデンティティーによる分断と憎悪である。