前世代の先輩たちがいつの間にか姿を消していった──氷河期世代と世代論
そのような前提で、冷戦構造の中での「中東問題」を見てきた上の世代の語る中東論には、私が歴史書の中の出来事として読む事象を、同時代に体験してきたという揺るぎのない強みがあると共に、冷戦後の新たな前提や状況を理解しにくくなる、どうしようもない古臭さの両方を感じ取らざるを得なかった。上の世代との頻繁な対話のたびに、尊敬と苛立ちを強く感じたものである。
いつまでも立ち退かないように見えた、どこにでも出てくるように見えたそのような前世代の先輩たちが、2010年代に、私が「アラブの春」と「イスラーム国」に忙殺されて日々を過ごしているうちに、いつの間にか姿を消していった。
代わりに目の前に現れるのは、「一番最初に読んだ中東についての本が、池内さんの『現代アラブの社会思想』です」と言う若手研究者や、「『中東 危機の震源を読む』を雑誌の連載で、本でも愛読していました」と言ってくる新聞記者である。もちろんそのように言ってもらえるのは嬉しいことである。
しかし2点で寂しさがよぎる。1つは、結局は、私は上の世代の中東認識を変えることができなかった、という徒労感である。
かつては冷戦期の枠組みによって規定された中東問題に基づく認識が支配的であった。それに対して、私はポスト冷戦期の現実に基づいて、挑戦した(と、今となってはまとめられてしまう)。その挑戦を上の世代の一部は受けて立ってくれたようにも見えるが結局は受け入れたわけでもなさそうであったし、多くは自らの存在を否定されたかのように拒絶した。
私にとっては、「上の世代には見えていない現実と将来見通し」を誰よりも先に、摩擦を乗り越えて示す「ヴィジョナリー」の役割をもっぱら担っていたと言えよう。
現在、冷戦期の枠組みをそのままに中東問題を語る人々は(大学などで制度的に温存・継承されている場合がないではないが)、一般にはほぼいなくなっている。私の示す中東問題の見方に、以前のような強い反対を受けることは無くなった。