前世代の先輩たちがいつの間にか姿を消していった──氷河期世代と世代論
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<急速な世代交代により、長い間「若手」を担ってきた「氷河期世代」も社会の中核となりつつある。「ただ世代交代だけが新しい思想をもたらす」と池内恵・東京大学教授は述べる。論壇誌「アステイオン」94号は「再び『今、何が問題か』」特集。同特集の論考「歴史としての中東問題」を2回に分けて全文転載する(本記事は第2回)>
※第1回:複合的な周年期である2021年と、「中東中心史観」の現代史 より続く
「ヴィジョナリー」から「ヒストリアン」へ
このような平凡な「昔話」による「自分語り」は、できれば避けたかったのだが、しかしやむを得ない。それはここのところ急速な世代交代を、身近なところで感じるからである。「昔話」に含まれるごく当たり前の事実を事実と認識できない世代が育っている。
それと共に、「1973年のオイルショックの年に生まれました」「1979年のソ連のアフガニスタン侵攻の時は小学1年生でした」と申告すれば驚愕するかあるいは鼻先で笑ったであろう先行世代、すなわち20世紀の後半を見届けてきた、これまで膨大に重しのように存在していた上の世代の姿が、視界から急速に見えなくなっている。
2011年の「アラブの春」の頃までは、この上の世代は厳然と存在しており、そういった先輩の世代の語る「中東の紛争」といえば、1950年代―60年代のアルジェリア紛争やスエズ動乱であったりしたものである(1990年代のイスラーム過激派をめぐるアルジェリア内戦やエジプトでのテロですらない)。
考えてみればドゴールは日本で言えば岸信介あたりと同世代であり、ナセルやサダト(1918年生まれ)は、田中角栄と中曽根康弘(1918年生まれ)や宮澤喜一(1919年生まれ)と同年代である。
一般に長命で、年功序列の傾向が強い日本において、この世代の人々がそれほど遠くないつい最近の過去まで現役で、あるいは「ご意見番」として機能してきたのだが、その世代の人々は、両世界大戦の帰結や、民族主義・反植民地主義といった冷戦期の世界史の背景・文脈を、自らが生まれ育った時代のものとして身につけていた。