認知症患者から見た世界を描いた映画『ファーザー』を、『全員悪人』著者はどう見たか
ただ、一つだけ以前とは大きく変わったことがある。
彼女が愛した生徒さんはもう、義母のお稽古には通っていない。二年ほど前、最後の最後まで残ってくれた二人の生徒さんは、私に丁寧な挨拶の電話をくださったのを最後に、お稽古を辞めた。義母の認知症が進んでしまったからだ。彼女たちが苦渋の決断を迫られていたことを、この最後の電話で知った。
先日、アンソニー・ホプキンスは、認知症と家族の苦悩をテーマにした映画『ファーザー』でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。認知症となったアンソニーの苦悩や恐れを、認知症当時者の目線で描いた本作は、今現在介護職に従事する人、家族の介護をしている人たちにとっては、大きな謎を解く鍵でもあり、これから先の生活への覚悟を決める作品になるのではと感じている。
認知症当時者と向き合う人であれば多くが経験するであろう、認知症患者だけに見える光景というものがある。当事者には、くっきりと見えていて、現実以外の何ものでもない光景が、我々介護をしている側の人間には、影も形も見えないということが本当によくある。
家に入ってきた泥棒、浮気をする配偶者、自分の大切なものを盗む親族。こういった光景は認知症当時者の目には、これ以上ないほどはっきりと見え、見えているのだからそれは揺るがない真実となる。それを家族に理解されず、誤解が生まれることで、強い怒りが爆発する。
自分も大事な人を傷付けるように
介護する側は自分が疑われることで、悲しみ、腹を立て、無気力になっていく。人間の暗い部分を見せつけられ、この人は変わってしまったと絶望する。しかし、絶望しているのは、変わらざるを得なかった認知症当時者も同じだ。
本作でホプキンスが演じた認知症の父親も、見えないものを見て、盗まれていないものを盗まれ、それを娘に訴えてはぶつかり合う。認知症患者の症状は世界共通のものなのだと、ある意味、救われたような気持ちになった。
だれもがこの道を進んで行く。私は本作に主演するホプキンスに、年老いた家族を重ねるのではなく、自分自身を重ねて観た。私もきっと、見えないものを見て、家にやってくる知らない人に慄き、誰よりも大事な人たちを傷つけることになるのだろう。
幸運にも病気で命を落とさないとすれば、多くの人間が避けて通ることができない認知症という病。心から愛する人だからこそ、疑い、責めてしまうこの病を理解し、認知症当時者の閉ざされた世界を、その深い悲しみと絶望を、ほんの少しでも垣間見ることができたら、彼らに対する愛を失うことなく、併走することができるかもしれない。そんな希望を抱かせてくれた作品だった。
『全員悪人』
村井理子 著
CCCメディアハウス
〔家族が認知症になった。悪気はない。それでも周囲に迷惑をかけてしまう。家族以上に戸惑い、苦悩しているのは本人なのではないか。いろんな事件が起こる認知症当事者と家族の日々〕
『ファーザー』
絶賛公開中
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