「私には夢ができた」牡蠣養殖から民宿女将へ 気仙沼ルポ「海と生きる」
TEN YEARS ON
一方で、唐桑の大沢集落で暮らす吉田三喜男(72)は、変化を喜びつつも、故郷を取り巻く「都会化」に言い知れぬさみしさを感じている。
高台に残った吉田の自宅を9年ぶりに訪ねる。顔にやや増えたように見えるしわは、地元の復興に奔走してきた彼の年輪のようでもある。
13年前に唐桑の役場を退職した吉田はこの10 年、「よそ者」の加藤を息子同様に応援してきた。震災後、情報通の彼の元をメディアなど多くの人が訪れ、受け取った名刺の束は膨れ上がった。だが吉田は、集落のつながりは「か弱くなりました」と語る。
大沢集落は海抜ゼロメートル地点が多く、津波で42人という唐桑地区で最も多い犠牲者が出た。震災前に188世帯あった集落は複数の高台に住宅移転し、コミュニティーとしての形を変えた。
10年前まで「一心同体」だった地域住民は、吉田によれば「アーバンな考えになってます。貸しを作らず、借りを作らず。冠婚葬祭には地域全員が参加していたのも、必ずしもそうでなくなった」
町役場に勤める以前、中学卒業の翌日からマグロ漁船に乗って遠洋漁業に出ていた吉田は、高台に残った自宅から「海が見えなくなった」ことにもさみしさを感じている。防潮堤が建設されたからだ。「海から恩恵を受けて暮らしてきたから、海が見えっと安心する。防潮堤があっと、津波が来ても分からない」
家族を失った人も同じ気持ちなのか。吉田と同じ集落に住んでいたが、津波によって家が流された星眞一郎(78)を訪ねると、息子の光(40)と一緒に高台に新築した自宅に筆者を招き入れてくれた。
周りに形成された団地には、賃貸式の災害公営住宅と100坪ずつの区画に新築した戸建てが立ち並び、60世帯が暮らす。星の妻は、まだ見つかっていない。
あの日、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」の近くでガソリンスタンドを営んでいた星は、地震の発生後、津波が来たらこの道でここに避難しようとその1週間前にたまたま家族で「練習していた」最短ルートを使い、息子と2人で高台に向かった。
朝から妻と息子と3人で陸前高田市内にいたのだが、仕事の手が空いたので午前中に妻だけ先に家に帰らせた。地震後、自分と息子の2台の携帯で妻に電話をかけたが、何度かけても、ついに電話がつながることはなかった。
星は妻について多くを語らない。震災のずっと前だが、妻と津波が来たときのために裏山にロープを張って逃げやすいようにする計画を話していた。自分は子供の頃から明治や昭和の三陸地震の話を聞き、「揺れ=津波=高台」と本能的に刷り込まれているが、「妻は陸前高田の内陸部の出身だった......」。