拷問を生き延びたウイグル人家族が、20年の沈黙を破って語った恐怖
ONE FAMILY AND GENOCIDE
拘束され人格が変わった妹のサリハ(右)。兄弟のアブドゥラザク(左)も1998年に当局に拘束され分派傾向を理由に終身刑に処された COURTESY OF ZUBAYRA SHAMSEDEN
<1997年2月のグルジャ事件で中国当局に拘束され、人生を狂わされたウイグル人の女性が重い口を開いた。中国は今もグルジャ事件や2009年のウルムチ騒乱などに関わったとして数百万人を強制収容所に拘束している>
彼女の手首や腕にある傷痕を見るたび、あの時のことを思い出す。
新疆ウイグル自治区の西部に位置するグルジャ市の警察署にある拷問部屋で、彼女はありもしない罪を自白しろと拷問され、傷から流れ出した血が床に滴った。彼女の名前はサリハ。私の妹だ。
24年前の1997年2月5日、グルジャで大勢のウイグル人が宗教弾圧や民族差別に抗議する非暴力デモに参加した。中国当局は暴力を使ってデモを弾圧し、多数を拘束した。
デモ参加者が拷問や不公平な裁判を受けたことは、複数の人権団体によって明らかにされている。処刑された者も少なくない。
当局はその後もデモの関係者を探し続けた。そして1997年10月。
当時23歳だった妹のサリハと20歳だった姪のサイドらは近くのニルカ県で行われた結婚式から帰ったばかりで、よそ行きのドレスを着たままにぎやかに談笑していた。
だが楽しい時間は長くは続かなかった。妹にとって数十年にも及ぶ悪夢が始まろうとしていた。
その日、完全武装した警察官5人が自宅に押し入ると、彼女たちを拘束した。父は、せめてサリハを少し休ませてやってほしいと頼んだが聞き入れられなかった。
警官たちはまるで彼女が殺人の指名手配犯であるかのように手錠を掛けると、警察車両に押し込み去っていった。母は卒倒し、父は立ち尽くし、それ以外の家族は恐怖と混乱に陥った。
グルジャの警察署に着くと、サリハは2階の取調室に押し込まれた。警官たちは、最初のうちは丁寧な口調で「トゥルサン・セレーの妻をかくまっていないか。友人なのは分かっているんだ」などと尋ねた。サリハは「知らない。夫妻とは何のつながりもない」ときっぱり否定した。
すると警官たちはいら立ち始め、口調も取り調べ手法も激しくなった。まず彼らはサリハを警棒で殴った。最初は背中を、その後は全身を。一番痛かったのは耳の後ろだ。イヤリングが砕けて散り、破片が床の上で跳ね返った。
釈放後も事実上の軟禁生活
しばらくすると、彼らは内側に鋲(びょう)が付いた手錠をサリハにはめた。手錠の両側を押すと鋲が肌に刺さり、手首から血が噴き出した。サリハは少しずつ感覚を失っていった。
それでも自白しないと、今度はサリハの両足に重い足かせをはめ、1階と2階の間の階段の隅に連れていき、鋲付きの手錠を壁の導管につないだ。痛みと疲れで眠れなかった。
「取調室」からは恐ろしい叫び声が聞こえてきた。サリハにとっては、建物全体が拷問部屋だった。